柿本人麻呂終焉の地について
昭和十二年、アララギ派の歌人 斎藤茂吉は『柿本人麿鴨山考』で、残された万葉五歌の理想郷を求めて江ノ川の上流を目指し、三瓶山麓 湯抱に鴨山を探し当て、疫病死説終焉の地としました。昭和五十年、哲学者 梅原猛教授は、これを『水底の歌』で徹底的に論破、人麻呂は島根県仁摩町宅野の沖、韓島に現地妻と共に軟禁されていて、四月のある日、そこから南西80㎞、益田沖の鴨島に連行され、水死刑にされたと推論されました。
又、現地妻 依羅娘子の住居は斎藤茂吉説以来の国府以北仁摩でしょうか。それも不可解。浜田湾の南、周布の鰐石遺跡からは南方稲作民の石器「穂摘み」が発見されています。古く氏族単位の墓制も存在しました。周布古墳からは子持ち須恵器も出土しています。須恵器は大阪南部を中心として全国に広がったものです。依羅一族は稲作民の「歌垣」の風習を持ち、小集団で漁もする網元、つまり氏族の娘ではなかったか。残された万葉二首の返歌からは野良着だけの女性ではない、歌の感性と教養を感じます。そして柿本家は鑄師を家業としており、人麻呂は砂鉄の朝集使として若い頃周布に赴任していたことも、今日では知られています。当時は瀬戸内海から津和野経由で石見に入り、浜田川の黒川に着目、三階山、唐倉山。大麻山、周布川辺りは調査の範囲であったのでしょう。
最晩年、藤原不比等政権から離脱した人麻呂は、この時は律令体制が全国に及ぼうとした時代、出雲、石見路を南下して長い旅の終わり、鴨山付近で一夜をとり、さあ、明日は懐かしい妻の住む周布である。自分達夫婦の別居生活を鴨山の一人寝の寂しさにたぐえて歌枕に、しかし、今ここに自分が居ることを妻はまだ知らない、「待ちつつあらむ」と詠んだのではないでしょうか。
鴨山の磐根し枕ける 吾をかも 知らにと妹の 待ちつつあらむ
ところが、春の嵐、夜半の豪雨で浜田川が氾濫、浜田湾一帯は水浸しとなり、歌人は海に流され溺死した。それは周布川についても同じで現地は大混乱、遺体は上がらず、依羅一族以外 馴染みのない旅人のこと、何時しか忘れ去られたのでしょう。更に其後の万寿三年、石見大地震の天災もあって、一三〇〇年後の今日、人麻呂終焉の地は、歌人、哲学者、古代史家と三者三様の目で語られることになりました。本稿は古田武彦先生の講演記録と『人麻呂の運命』をもとに浜田説にエールを送るものです。
万葉集には柿本人麻呂終焉之地を伝える歌が五首あります。その歌から推定される終焉の地は奈良県に一ヶ所、島根県石見に3ヶ所です。
万葉集は奈良時代末期に、その350年も前 仁徳天皇時代から蒐録された中央集権律令国家誕生の活気に満ちた白鳳時代、天平時代の和歌集です。橘諸兄と大伴家持共撰で編纂されたと考えられています。音訓混合漢字表記全20巻4516首収められていました。しかし、大伴家持が晩年、藤原種継の暗殺に加担したという嫌疑で罪人となった為かえりみられることなく、平安中期になって初めて梨壺(ナシツボ)・撰和歌所の五人の歌人によって仮名の訓読—古點が打たれました。更に鎌倉時代中期、天台宗の僧 仙覚は20巻すべての歌に訓詁を試み、新點ができましたが、四百年の空白と和漢混交の音訓当て字で、詩経や論語に仮名をふるより難解なものになっていました。其の後、江戸時代前期の国学者歌人、浪花の釈契沖によって元禄時代1688年注釈書「万葉代匠記」初稿本が成立。そして江戸中期の加茂真淵、本居宣長によって助詞等の研究が進み、明治初年には土佐の人で鹿持雅澄の「萬葉集古義」が勅板として世に出されました。
今日では大正、昭和初期の国学者、歌人の更に並々ならぬ努力で現代語訳万葉集が一般家庭でも置かれるようになっています。万葉集は上は天皇から下は庶民、遊女乞食、集団発生的な民謡歌まで膨大な内容の歌集で万葉の人々のかざりのない心、生活様式、社会政治状況等歴史の襞を知る貴重な古典となっています。万葉集20巻中に人麻呂の歌は長歌19首、短歌71首が採録されています。終焉の地について知り得る歌はその中に臨死の前日の1首のみ、全編中では反歌、報歌、追悼歌を含めて次の五首のみです。
柿本朝臣人麻呂 石見国に在りて死に臨(みまから)む時自ら傷(いた)みて作る歌一首
鴨山の 磐根(いわね)し枕ける 吾をかも 知らにと妹の 待ちつつあらむ 223
柿本人麻呂死時 妻依羅娘子( よさみのおとめ)の作れる歌二首
今日今日と 吾が待つ君は 石水の 貝に交じりて ありといはずやも 224
ただの相いは 相い耐えざらん 石川に 雲立ちわたれ 見つゝ偲ばむ 225
丹比真人某、柿本朝臣人麻呂の意に擬(なぞら)えて報(こた)ふる歌一首
荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ 226
或る本の歌に曰はく
天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 念(おも)ひつつあれば 生けるともなし 227
柿本人麻呂終焉の地が奈良県五条市から吉野辺りであれば不明ということはまずありえないでしょう。
柿本人麻呂の多くの万葉歌は現代日本語表記に重要な役割を果たしていたと云われています。そのような日本を代表する歌人終焉の地が石見に三ヶ所とは不思議ですが、有難く面白く嬉しいことです。もともと柿本人麻呂終焉の地は萩、津和野に近い石見益田市の沖合一キロメートル、日本海に水没した鴨島と石見の中心浜田市亀山城跡鴨山に言い伝えられていたことですが考古学的な確証はなく、そこに、昭和九年アララギ派の歌人 斎藤茂吉氏が全く別の場所、太田市三瓶山麓、江ノ川の上流であると「鴨山考」を発表されました。そこは江ノ川が三瓶山に向かって流れ、西南に大きく蛇行する現在の三江北線JR浜原駅粕淵一帯亀村の津ノ目山(ツノメヤマ)、亀村なら亀山とも呼ばれていたであろう、カメはカモに通ずる鴨山のことであるとされたのです。其の後津目山は地元の青年の手紙で、そこから更に西北の支流、姫谷川沿いの太田市三瓶山南麓 湯抱鴨山に訂正変更されました。土地台帳が確認され通称芝刈山がくだんの鴨山のことで最終的に人麻呂終焉の地であるとされたのです。斎藤茂吉氏五十五歳のときでした。
斎藤茂吉(以下敬称略)は山形県の出身、東大医学部を卒業、二十六歳でアララギ派歌人となり、大正十年四十歳の時ドイツに留学、三年の留学を終え、帰国する半年前の早春ドナウ川の源流を旅してます。医師であるかたわらアララギ派歌人として柿本人麻呂万葉歌の注釈書を完結する為にはどうしても人麻呂終焉の地を探しあてねばならないという長年の思いがありました。柿本人麻呂が死に臨んで残した「鴨山の磐根し枕ける」とはどのような山か、現地妻 依羅娘子(ヨサミノオトメ)の返歌「石川に雲立ちわたれ」とは何処の川か、望郷の想いに駆られた時、最上川の桜と 霞む川原、深い淵がドナウの源流へ旅立たせたのでしょう。
アララギは奈良時代の正装用手板、笏(シャク)を作った櫟(一位)の異称です。伊藤左千夫の主唱する重厚な万葉調写生短歌の会でその頃 茂吉はすでに主導的立場にありました。
人麻呂終焉の地は自分が探す。真実を探し当てるのは自分しかいない、その思いが信念となっていたのでしょうか。帰国後、石見の鴨山と石川を探して云い伝えの残るそれらしい地を訪ね歩きました。しかし、いずれも彼の歌のイメージに合いません。石見益田沖の鴨島は水没して今はないし、白浪の立つ海原を眺めて水没する程度の小嶋では話しにならない。まして鴨島は鴨山ではない。
益田は人麻呂生誕の地と云われるが、それかて子供じみた伝説にすぎないではないか。
浜田市亀山城跡鴨山と浜田川はこれまた箱庭としか思えない。三〇メートルの亀山は丘であり、二五メートルプール程度の川原はせせらぎで上流は沢に近い。磐根しまける鴨山はどっしりとした三〇〇メートル級の山でなけねばならない。石川に雲立ちわたれと言うからには水量豊かな渓谷であろう。「天離る夷の荒野」とはどこか。「磐根し枕ける吾」とは一人寝の侘しさで妻がそれを知らぬとはどういうことか、国府から十数理は離れていたからであろう。返歌の「石水の貝」の貝とは石川のどこか山峡のことで峡は古訓でカイと読む。結局、石川とは江ノ川に外ならないと結論づけました。
江ノ川は山陰の雄、能無し川などと悪口は言われるが水量豊かで何より渓谷が美しい。川本町、石河邑(イシカワムラ)の上流辺りに見当をつけ、ある日太田市からバスで江ノ川の中流を目指しました。粕淵から浜原へさしかかった時突然視界が開け、目の前の光景に電光が走り体の震えがとまらなかった、ここだと直感したと言うことです。深々と水をたたえた清流と重層の山、紫雲棚引く風光明媚な一帯が万葉歌に残された歌意とイメージがピッタリ合ったのです。そして更に西北四キロ、姫谷川沿いには現実に鴨山がありました。
歌人茂吉が長年想い描いた歌の現実の地でした。鴨山をついにつきとめ、その歓喜の気持ちを詠んだ歌が最晩年の自筆揮毫で歌碑となって現地湯抱公園に建てられています。
人麻呂がついのいのちを をはりたる 鴨山をしも ここと定めむ
同時に柿本人麻呂全五巻を発表
昭和15年帝国学士院賞を受賞 58歳
昭和26年文化勲章を受賞 69歳
昭和28年71歳で永眠
昭和62年竹下登首相の故郷創生1億円で国道沿いに斎藤茂吉記念館が建設される
昭文社62年版島根県地図でも湯抱に柿本人麻呂終焉之地と記載されていて柿本人麻呂の歌碑も数首建てられています。
湯抱公園検索参照
さて、昭和初期いきなりの茂吉説に困惑した益田市柿本人麻呂神社の神官や浜田市の国学者は反論しようとしましたが、それを予期していたかのように斎藤茂吉はいち早くこれを牽制、田舎の郷土史家ごとき、何度言っても歌の心のわからぬ大馬鹿者と痛罵しました。当時の氏の見識と剣幕に圧され、石見人はそれっきり黙ってしまいました。
死の直前 あのように淡々とした、恋慕の歌を詠める環境はここしかない。歌聖人麻呂が到達した凡人にはわからぬ境地である。現地妻の返歌が証明していると、ガンとして突っぱねたのです。
三本の河川で奏でられる筈の万葉の調べは青きドナウの曲に乗らず、最上川のさみだれに掻き消されてしまったかのようです。
斎藤茂吉医師の「鴨山考による空想的診断」では柿本人麻呂は下級官史であった為 死の公的記録は残らなかった。砂鉄事業の税帳使として三瓶山南麓湯抱に赴任、当時流行した疫病に患り急逝した。慶雲四年四八歳であったと。
年齢はおおむね 加茂真淵、契沖説に従っています。
それでは疫病の遺体は他の多くの患者と共に「荒波に寄りくる玉を枕に」激流の川原に埋葬されたのでしょうか、何ひとつの墓標もなく。そして四八歳死亡ではそれ以前の年代が合わなくなることは、今日では明らかにされています。例えば子供の躬都良(ミツラ)が壬申乱で連座して隠岐に流された時期、官位を授かった年齢を考慮すれば逆算して六六三年の白村江の戦い当時人麻呂は少なくとも一六〜十八才となり生誕は大化の改新六四五年か六四七年丁未(ヒノトヒツジ)の年となります。従って死亡は慶雲四年(七百七年)では六〇歳から六十二歳です。推定年齢は修正できるにせよ、では六十余歳の老人を朝廷は砂鉄や鉄鋼石の採掘場へ赴任させたのでしょうか。かじや者の部落、鉄山(カナヤマ)はある意味無頼者、山師は荒くれでないと務まらない特殊な集団です。疫病患者の見舞いであると云われるのなら、彼は医者ではなく歌人です。又、白鳳十三年三瓶山は大爆発を起しています。以後爆発と地震を繰り返して現在の夫婦、孫の山容を呈しています。十数年の歳月があるとは言え、硫黄や炭酸ガスの噴出が続く場所で鉄の採掘が出来たのか。今日の志学温泉のシガクは死の岳です。そもそも炭酸ガスや硫黄の噴出する山に、何を好んでそんなところへ鴨が飛来するのでしょうか。大正十年の土地台帳に鴨山が記載されていたところで 今日でも邑智郡の邑智の意味さえ詳かでない一般名刺の鴨山が千四百年前の万葉歌とどれほど関連し信憑性があるというのでしょうか。よしんば鴨山と呼ばれていたとしても、それは鉄の採掘が盛んであった江戸時代からのことに外なりません。そしてこれも「鴨山考の想像」ですが人麻呂は備後から馬で中国山脈を越えたことになっていますが、それなら山脈のどこへ馬鈴を置いたというのでしょうか。そこから現地妻依羅娘子の住む浜田市国府へは同じ石見でも路は険しく妻とするには余りに遠い。道中江ノ川沿いの村里には何故か美人が多い、妻となる女性は何人も居た筈です。
柿本朝臣人麻呂は官位を剥奪されて罪人として海の底に沈められました。三瓶山の山奥湯抱などで疫病で死んだのではなく、日本海に石の重りをつけて沈められたのです。石見益田市高津川沖鴨島の荒波の底です。「人麻呂はここに居るぞ」と叫んで居ます。丹比真人某とは現地妻を知る先輩歌人でしょうか。真人は最高位の貴人で、朝廷の仕打ちに対する痛切な告発でしょうか。
荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ 丹比真人某
柿本朝臣人麻呂は高官であっても死罪なので公式記録が残っていないのは当然です。丹比真人某
ー名をもらしたりとは朝廷に睨まれることを避けて名を伏せています。朝臣人麻呂は藤原不比等政権に不満を持ったことで持統帝とも疎遠になり挙句、文武天皇の第一夫人との仲をも疑われ、恩知らずの人でなしと非難され不敬罪、邪魔者として流罪追放、結果死罪となったのです。国の将来を憂う詩人の正義感が裏目に出ました。朝臣人麻呂にとっては無実の罪で死罪となりました。無念さが怨霊となって祟ることがないよう遠い田舎の海の底に石の重りを括りつけて棄てられたのです。歌はそう伝えています。其の後政権が代わり、人麻呂公を慕う人々によって鎮魂の社が建てられました。しかし、300年後の1026年万寿3年丙寅五月海嘯が起り、大地震で島諸共海中に没してしまいました。その神社の痕跡が海底のどこかに残っているはずです。
もののふの 八十氏河(やそうじがわ)の 網代木にいさよふ波の 行く方知らずも 264
淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば情(こころ)もしのに いにしへ念ほゆ 266
これまでのすべての注釈書は人麻呂が近江国から大和へ上がった時の歌と説明されていますが、「水底の歌」では万葉集の詞書きは後の人の附会で必ずしも信じることは出来ない。この歌は人麻呂が罪人となって引かれてゆく旅の途中で詠まれたものであると、その心情をこまごまと解説されています。つまり、瀬戸内を海路、そして広島から津和野越えで石見へ入ったのではなく、日本海側山陰路を徒で下ったということです。追放か左遷かはわかりませんが本稿もそれに順じます。
くりかえしますが、水底の歌では、人麻呂は仁摩町宅野沖の韓島に禁固され、妻と共に暮らしていた。初夏のある日、警護の武士に連行され、西に八十キロ、益田の鴨島の中の鴨山で一夜を過ごし未明、鴨島沖で水死刑にされたと。しかし、それであるなら途中の浜田湾鴨山沖では何故不都合なのか。浜田には注釈なしの鴨山があり、浜田川は石川と呼ばれていました。何れにしても韓島禁固刑死では「知らにと妹の」とか、死刑が確定したあとで「今日々と我が待つ君は」の返歌が不可解。
ここからは古代史家 古田武彦著「人麻呂の運命」に力を得て稿を進めます。
柿本人麻呂は掾(ジョウ)、目(サカン)の間 朝集使第三等官の頃、一時 石見に赴任していたことがあります。斑田収授と砂鉄の朝集が目的でした。柿本家が鋳師の家系であることは奈良大仏の鋳造古文書にその名があることから明らかになっています。白村江の戦いで韓半島からの輸入鉄が不足、建国の為に鉄は必要で、なかでも自国産武器、刀剣の鍛造は急務でした。久佐郷、雲城山、金城を水源とする浜田川は花崗岩の良質な砂鉄の採取地で、それは江戸時代からの資料や明治初期 島村抱月の祖父佐々山一平氏が鉄山(カナヤマ)の支配人として佐々田家に莫大な財を齎したことはよく知られています。浜田川は何万年もの昔から対馬暖流の運ぶ雨で天然の鉄穴(カンナ)流しの川であり、そこは石川と呼ばれていました。石川は神の石、真砂(マサ)と呼ばれる最高品質の砂鉄の採れる川でした。河口の浜田市街へ出る黒川町の黒は真砂と云われる砂鉄の色で真砂は神の恵み、神の宝物、そこは神域であった筈です。浜田湾のハマは払い清め祀るハマ、鴨山には大きな岩が明治初期まで祀られていて神茂(カモ)は神籠(カミコモ)れる山のこと、古くは石神社(イハミヤシロ)がありました。余談ですが、正倉院五十五振りの刀剣のうち何本かに浜田川産の真砂を炒り込んで鍛造された炒鋼鰊鉄(ショウコウレンテツ)の刀剣があるにちがいないと睨んでいます。
●浜田市 亀山(鴨山)浜田城跡 秋葉神社に人麻呂を祀る雁木社が合祀されている
鴨山の 磐根し枕ける 吾をかも 知らにと妹の 待ちつつあらむ
くり返しますが、「万葉集の詞書きは 後人の附会で必ずしも信じることが出来ない」と、つまり「死に臨む時、自ら傷みて作る歌」とは言えない、久し振りに逢える喜びが込められています。
ところが、夜半の雨、春の嵐でした。石川は一気に増水、・・・・・・・
一夜あけると浜田湾一帯は水浸しとなっていた。知る人のない旅の人麻呂と従僕にとって道は不案内、状況はわからない。かって歩いた記憶のある黒川町の山沿いの道を探して人麻呂は濁流にのまれ海へ流され溺死した。石水の貝に交り海の底深く 岩を枕に。嵐が去って数日、死の報せを受けた依羅娘子には、然し、なすすべがなかった。
今日今日と 吾が待つ君は 石水の 貝に交じりて ありといはずやも
ただの相いは 相い耐えざらん 石川に 雲たちわたれ 見つつ偲ばむ
周布古墳の高さは四〇メートルあり、古墳の上から北西に浜田湾を望むと日本海に浮かぶ白い雲が三階山の向こう石川と石神社鴨山のほうへと流れ、「石川に雲立ちわたれ」と詠んだ彼女の気持ちが自然に伝わってきます。つまり、浜田湾には鴨山があり、浜田川は石川と呼ばれていて周布古墳から浜田湾の方角には雲立ちわたれと詠める地形がありました。その海の底に人麻呂は石川の貝に交じって眠っていたのであります。何時の頃からか石神社の礎石に人丸の二文字が伝わり、傍の三階山は石神社の神梯で山頂に祠があります。そこからは日本海が一望で、今は昔、初夏にはトビ魚の産卵の頃、沖の潮目が細く長くピンクに染まりました。長く細く続く潮の帯を天女の羽衣と人は云う。歌聖人麻呂の魂は山上をそぞろ歩き、東に三瓶山を、南西に高津の高台と須佐富士の霞む海をのぞみ、ここに居るよと告げているのです。
万寿三年(一〇二六年)五月二十三日、亥の下刻(二十三時)、海嘯が唸りを上げて迫り、二十三メートルの海水が石見海岸一帯を呑み、押し上げ、流れ去り、人と人家、資材、記録の数々は瞬く間に消えてしまいました。浜田湾、万年ヶ鼻の崎に立って、今日 その急峻な地殻変動を見ると、平成二十三年三月の東北沖大地震のテレビ映像の凄まじさを思い起こします。人麻呂没後、石見地方は水害や旱害が繰り返し、万寿三年の海嘯は壊滅的で、神火(放火)と俘囚の反乱が報告されるばかり、一一一三年、藤原貞道が国司となって下向するまでの四〇〇年間、主たる歴史伝承は空白となってしまいます。更に、関ヶ原後、毛利氏は山口県長門、萩に移封され、周布を治めていた周布氏もそれに従って萩に移ったことから、菩提寺の纏った書類等が持ち出され、長門に関係のない石見の記録は次第に散逸したとみる地元の歴史家の洞察もあります。
それが今回のような、歌人、哲学者、古代史家の目で三様に推理され、各自の結論を得られたのでしょう。貴重な遺産となっています。畢生の思いを込めて揮毫された苔生す石碑、古典は地域を強くする。
最後に、斎藤茂吉氏の説を修正しておきたい歌の場所があります。昭和30年代、まだインテリ復員兵が多かった頃、ある漁師は人麻呂の歌を空んじていました。 長短歌地図参照
彼は高角山は益田の高津の高台だ。「角の浦廻」(ツヌノウラミ)は都野津の浜ではない。地震で海岸線がつながらなくなったけど吉浦、今浦、ナゴ浦、福浦、角浦、田ノ浦、青浦、荒磯、津田、益田に至る海岸の小さな浦のことだと笑いながら話していました。詩の中に「八十隈毎によろずたび」と数多い曲がり角があることが歌われている。吉浦、今浦、なご浦にかけての七曲り峠はその名残りであろう、海と旅の安全を祈願する小社もある。彼はこの道を「人麻呂古道」と呼んでいました。歌人茂吉が牽強附会した江津の島の星山は論外、都野津の浜は長い砂浜で浦がないのは当たり前のことだ。角の浦廻は人麻呂古道に多くの浦はあっても津和野を超えた瀬戸内海にあるような良い浦や潟がないという意味である、と。
JR山陰本線下り浜田駅を発つとすぐ日本海が車窓に開け、周布、折居をすぎると黒松の株間に白浪が打ち寄せる岩礁が見え隠れします。田ノ浦をすぎた頃鎌手、津田では磯の多い海岸が広がり若布やホンダワラ、青さ等右に左にからまりながら波に洗われる様子を「か寄り かく寄る 玉藻なす」とうたわれた角の浦廻の景色が間近に見られます。
高角山の 木の間より 妹が門見む なびけこの山
と絶唱したにちがいありません。
半世紀以上も前、教壇で疑問の表情と暫くくちごもられた藤井先生からのお答えです。
註
角乃浦廻の原文は現代日本語表記になっていることから 今日では人麻呂晩年のものと考えられています。一方出雲風土記の人麻呂石見赴任は天武四年二十九歳頃となり年代が合いません。考えられることは個人的な持歌は安騎乃野に供奉した冬猟奉歌等と異なり後日の推稿が可能です。どちらも真実なら、人麻呂は明石や瀬戸内、博多に多くの歌を残していますので羈旅の都度、津和野から依羅娘子のもとに立ち寄ったことになり、余程石見に深い思いがあったことになります。
書友の為に 垂水 烽士 了