6須佐之男命の大蛇退治
故(かれ)、避追(やら)はえて、出雲國(の)の肥(ひ)の河上(かわかみ)、名は鳥髪(とりかみ)といふ地(ところ)に降(くだ)りたまひき。この時箸(はし)その河より流れ下(くだ)りき。ここに速須佐之男命(の)、人その河上にありと似爲(おも)はして、尋(たづ)ね覓(もと)めて上(のぼ)り往きたまえば、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人ありて、童女(おとめ)を中におきて泣けリ。ここに「汝等(なれども)は誰ぞ」と問ひたまひき。故(かれ)、その老夫(おきな)答へ言(まを)ししく、「僕(あれ)は國つ神、大山津見神(おおやまつみのかみ)の子ぞ。僕(あ)が名は足名椎(あしなづち)と謂ひ、妻(め)の名は手名椎(てなづち)と謂ひ、女(むすめ)の名は櫛名田比賣(くしなだひめ)と謂ふ。」とまをしき。また「汝(な)が哭(な)く由(わけ)は何ぞ。」と問ひたまえば、答へ白(まを)ししく、「我が女(むすめ)は、本(もと)より八稚女(やをとめ)ありしを、この高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(おろち)、年毎(としごと)に來て喫(くち)へり。今こそが來(く)べき時なり。故(かれ)、泣く。」とまをしき。ここに「その形は如何(いかに)。」と問ひたまえば、答え白ししく、「その目は赤かがちの如くして、身一つに八頭八尾(やがしらやお)あり。またその身に蘿(こけ)と檜榲(ひすぎ)と生(お)ひ、その長(たけ)は谿八谷峡八尾(たにやたにをやを)に渡(わた)りて、その腹を見れば、悉に常に血爛(ちただ)れつ。」とまをしき。(ここに赤かがちと謂へるは、今の酸醤なり)
ここに速須佐之男命、その老夫(おきな)に詔りたまひしく、「この汝(な)が女(むすめ)をば吾(あれ)に奉らむや。」とのりたまひしに、「恐(かしこ)けれども御名を覺(し)らず。」と答へ白しき。ここに答へ詔りたまひしく、「吾(あ)は天照大御神の同母弟(ろせ)なり。故(かれ)今、天(あめ)より降りましつ。」とのりたまひき。ここに足名椎手名椎(あしなづちてなづち)神、「然(しか)まさば恐(かしこ)し。立奉(たてまつ)らむ。」と白しき。ここに速須佐之男命(の)、すなはち湯津爪櫛(ゆつつまぐし)にその童女(おとめ)を取り成して、御角髪に刺(さ)して足名椎手名椎神に告(の)りたまひしく、「汝等(なれども)は、八鹽折(やしほをり)の酒を醸(か)み、また垣を作り廻(もとほ)し、その垣に八門(やかど)を作り、門毎に八桟敷(やさづき)を結ひ、その桟敷毎(さずきごと)酒船(さかぶね)を置きて、船毎にその八鹽折の酒を盛(も)りて待ちてよ。」とのりたまひき。
故(かれ)、告(の)りたまひし隨(まにま)に、かく設(ま)け備へて待ちし時、その八俣大蛇(やまたのおろち)、信(まこと)に言ひしが如来(ごとき)つ。すなはち船毎に己(おの)が頭(かしら)を垂入(た)れて、その酒を飲みき。ここに飲み酔(ゑ)ひて留まり伏し寝き。ここに速須佐之男命(の)、その
御佩(はか)せる十拳劔(とつかつるぎ)を抜きて、その蛇(おろち)を切り散(はふ)りたまひしかば、肥(ひの)河血に變(な)りて流れき。故(かれ)、その中の尾を切りたまひし時、御刀(みはかし)の刄毀(はか)けき。ここに怪しと思ほして、御刀の前(さき)もちて刺し割(さ)きて見たまへば、都牟刈(つむがり)
の大刀(たち)ありき。故、この大刀をとりて、異(あや)しき物と思ほして、天照大御神に白しあげたまひき。
こは草薙(くさなぎ)の大刀なり。(書記の分注に、「一書曰、本名天叢雲剣。蓋大蛇所レ居之上、常有二雲気一。故以名歟。至二日本武皇子一、改レ名曰二草薙剣一。」とあるのは後の附会である。)
故(かれ)ここをもちてその速須佐之男命(の)、宮造作(みやつく)るべき地(ところ)を出雲國に求(ま)ぎたまひき。ここに須賀(すが)の地に到りまして詔りたまひしく、「吾此地(あれここ)に來て、我(あ)が御心すがすがし。」とのりたまひて、其地(そこ)に宮を作りて坐(ま)しき。故(かれ)、其地(そこ)をば今に須賀(すか)と云ふ。この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰(のぼ)りき。ここに御歌を作(よ)みたまひき。その歌は、
八雲(やくも)立つ 出雲八重垣(いづもやえがき) 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を ぞ。
ここにその足名椎神を喚(よ)びて、「汝(な)は我が宮の首任(おびとた)れ。」と告(の)りたまひ、また名を負(おほ)せて。稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)と號(なづ)けたまひき。
1、神話のオロチ(記紀原文、八頭八尾一胴、目は赤加賀智の如)
2、石見神楽(Hamada Where Kagura is Life)
3、オロチ族(黒龍江 サカチアリヤン)
4、玉 竜 (六千年前の竜の形)
5、青銅器と竜(王冠を戴いた竜)
6、甲骨文 竜(竜の古代文字)
7、巫覡(フゲキ)(箕子朝鮮と邪馬台国卑弥呼)
8、劍と剱と刀(箕子朝鮮と邪馬台国卑弥呼)
9、玉 器 (項羽と劉邦)
10、オロチと勾玉と竜(豆満江を渡ったオロチ族、觿(ケイ)と勾玉、銅鏡竜図)
11、竜のヒューマニティー
12、古代日本刀 (石見浜田、石川の真砂)
13、八雲立つ 石見八重垣 (日本最古の和歌と柿本人麻呂の歌)
14、柿本人麻呂と原・古事記
15、参考図書・講演
16、オロチ神話の矛盾(酒と女を喰らう悪竜の神剣)
日本の古典、古事記
須佐之男命が退治したオロチは八頭八尾一胴の大蛇、古事記のオロチ退治は奇想天外、最高のスペクタクルドラマである。ところで、これは建国の歴史である。中国山脈に八頭八尾一胴の蛇など居る筈がない。その八俣遠呂智の発想とは何か、その長きこと谿八谷峡(タニヤタニ)に渡り、目は赤加賀智(アカカガチ)ホオズキの如く、背中には蘿(苔)、桧杉が生え、酒が好きで胸は赤く爛れているとは。中国山脈を縦横に流れる江ノ川の中流に邑智郡があり、オオチをオロチの語源とも言い、火を噴く三瓶山を恐ろしい山、オロチとも云う。語韻は似ていてもネームはナメエ、名前の語源ではない。又、オロチには架空の竜辰 ロン、リョウ等の言葉も訛りもない、オロチが竜で大蛇という日本語は何処にもない。北方の異民族オロチョン、オロチ族のこととも言われるが、歴史の辻褄を合わせられるのか、虎や狼では建国の歴史にならないのか。そしてオロチの中尾から長剣が出たとは、どういうことなのか。腹でもなければ竜の角の変形でもない、何故中尾なのか。中尾とは何処か、関連する事象は何か。遠呂智の居る処には常に雨雲がかかっていたことから天叢雲劔の出現がある。その場所は特定出来る、又、古事記では 都牟刈之大刀、後の草薙劔が、単なる架空の神話の産物でないことは熱田神宮の社家四、五人の実見記録がある。
「長さ二尺七、八寸、菖蒲の葉形、中ほどに厚みがあり、全体に白い色であった」玉籤集裏書より。
二尺七、八寸約84センチ、銅剣にしては長い。白銀色でよく切れることは草薙劔で実証されている。日本で最初に鉄剣が鍛造されるのは、更に2、3世紀も後なので銅剣ではないかと疑問視されるが、鉄剣であろう。銅剣なら、当時北九州に山ほどあり、時代は少し後になるが、出雲荒神谷には358本もの銅剣が埋納されていた。須佐之男にとって珍しくも何ともない、彼は尖光形銅剣十拳劔を持って戦っていたという。敢て天照に献上するまでもない、神宝とはなり得なかった。では、鉄剣なら何処で鍛造されたのだろうか。鉄にはヒ素含有量の指紋があり、現存すれば大凡の産地は判明するが、惜しむらくは嘉永四年(1185年)源平の戦いで安徳天皇と共に壇ノ浦の海の底深く沈んだことである。そこで、当時鉄剣を鍛造出来る古代鉄炉は何処にあったか、又、その技術は。まず、2、3世紀の出雲鳥髪山近辺に古代鉄炉は発見されない。日本で最古の鉄炉、野爐(のだたら)の遺跡は壱岐対馬と中国山脈の西、広島側にある。又、宝剣と共に三種の神器に勾玉がある。勾玉とは何か、吉祥、守護、竜との関係はあるのか。勾玉は天岩戸神話で天鈿女命(アメノウズメノミコト)の榊飾りの八尺の勾玉と「八尺瓊(ヤサカニ)の曲玉は突如として天照皇神の装身具として登場する」。
出雲神話は恋物語で優しく楽しいが、出雲風土記には、遠呂智退治神話は伝えていない。よく言われる斐伊川は暴れ川で下流は幾筋にも分かれ、腹のただれた大蛇が民家を襲い、八俣遠呂智神話の引き合いに出されるが、それは出雲王権が成立して、更に江戸時代以降大規模な鉄山流しの後付けである。八頭はあっても八尾が説明出来ない。遠呂智退治の物語りは出雲本家だけでなく、考古学的には、もう少し中国山脈の西、山口県萩、須佐辺りまで下って、更に西の空を眺めて考えざるを得ないのではないだろうか。韓半島南端には蔚山(ウルサン)、旧意呂山(オロヤマ)がある。ここは、石見神楽の地元押し、海外まで出張して公演される、その心意気に感じ、遠呂智とは何か、深く掘り下げて考えてみたいと思う。オロチと大蛇、竜であるのには六千年の歴史がある。
石見には浜田を中心に150舍以上の神楽の団体があり、令和元年大阪難波、桜川に郷土出身有志の手で石見館が開館した。こじんまりした平舞台で座布団でも観劇出来、映像を使ってストーリーをわかり易く構成してあった。浪速っ子を募集され、俄稽古とは思えない演技であった。ところが、石見館は一年余りで休館となった。誠に残念である。一に切符の販売、宣伝にも問題はあったが、郷土外で公演が続けられるなら、8拍子の旋律に詩があり、歌が必要であったのではないかと思う。大正初期、島村抱月の芸術座はカチューシャの歌、ゴンドラの歌で大ヒットした。オロチョンの火祭りのような、また、村祭りの歌もいい。東京2020オリンピック開会セレモニーでは50頭のオロチが舞う筈であった。オロチが吐く息と炎、救出された奇稻田姫によって聖火が点火されたかもしれない。再会が待たれる。
石見神楽については浜田商工会議所発行の美しい小冊子がある。B5版、155ページ、定価1800円。
明治十年頃から大正、昭和の初めにかけて国学者の藤井宗男氏、神職の牛尾弘篤氏らが詞章などを改正、6調子から8調子へ、更に木彫面から紙貼り子面へ、オロチは藁(ワラ)蛇から石州和紙胴へ改良、豪華な刺繍の衣装へと舞台を完成。田中清美氏などの指導で各地に普及。戦後氏子神楽の乱れを篠原寛氏等が原初の姿に共同研究検討され「校訂石見神楽台本」が刊行された。そして、昭和四十年園山弘昭氏など甍会による尽力で第1回神楽大会が浜田市民会館で開催されるに至り、今日の立派な伝統芸能として保存されている。(石見神楽歴史解説 川本裕司)
石見神楽の蛇舞は村祭りの深夜から未明にかけて演じられる。今か今かと大蛇が現れる瞬間は子供心に楽しくも怖い、オドロオドロしたなかに知恵と勇気、愛の舞台でもある。その神楽の国の歴史に何故 大蛇(悪竜)なのか。日本は大陸からの多民族国家である、中国古代史からオロチと玉と劔を追ってみた。少々長文のレポートになったが、写真資料を眺めながら拾い読みし、四千年の古代に思いを馳せて欲しい。。夢と希望と志しに竜の息吹があった。
ツングース諸語系エヴァンキ族はシベリヤの代表的民族で、馬とトナカイを飼育、狩猟に従事、漁猟、海獣狩猟も副次的に行う。現在は中国東北部、黒龍江沿い、ロシア領アムール河畔に居住している。北方ツングースのうちオロチョン族は中華人民共和国内フルボルイ市オロチョン自治区に約9千人が暮らす。オロチョンには「トナカイを有する者」の意がある。又、オロチ人はハバロフスク地方、沿海州、サハリンに約600人が暮らす。狩猟が主で弓矢が得意、オロには「山岳で暮らす者」の意がある。
ハバロフスクの北、サカチアリヤン(地図)にオロチ人と隣接して暮らすナナイ族の住む河畔の岩壁には蛇の胴体、マムシの菱形図型、新石器時代の岩壁画が報告されている。「ムドウル」と呼ばれ、その精はオーロラのように天に舞う蛇、岩壁の虺竜(キリュウ)は生命力が強く、彼等北方ツングース族の守護、畏敬の対象である。但し、ツングース族の本来の信仰は水鳥である。行く先々に生息する白鳥、鴨、雁などであるが、それは天空を自由に渡り、水に潜る、天と地を貫く水鳥の精に因る。彼等は捕獲して煮た水鳥や獣魚の凝固脂を一部、まず生命力の強い虺竜・蛇の形に象って切り取り、白樺の容器に入れてお供えとする。オロチョン族、オロチ人の生活用具、宗廟には鳥文、一頭二胴の蛇、菱形図柄、撚縄文、渦巻文、萬字文様が描かれている。
シャーマンの念力、魂の表現であろう。エヴァンキは天幕式住居者のことで、ツングースは語源不明、ツングースのなかでも猪豚の飼育に長けていた剽悍な靺鞨族(マッカツゾク)をトングースと言い、その説もある。猪は彼等の主要な食料であり、命がけの狩猟の対象であった。
ここでは新石器、初期鉄器時代のムドウル、虺竜を特記しておきたい。虺とは勇猛なマムシ(蝮)のことで、その精は竜の幼生 ミズチ、蛟虯虬螭(コウ、キュウ、キュウ、チ)である。四脚を持つものあり、毒気を吐く、以下虺竜とする。古代碧玉のものは玉竜と表記されている。
紅山文化(地図)ー
殷王朝で特筆されるのは青銅の酒器、盛器、鼎(カナエ)と亀甲卜占による甲骨文字である。王侯氏族の軍事訓練の様子も刻されている。戦車による猪狩であった。戦果は大きな鼎で煮て神に供えられる。鼎は王国の権威を象徴した。その鼎を守る側面の浮き彫りこそ単頭双身菱胴の虺竜文である。
「壬寅(ジンイン)雨が降らない 天帝はこの邑(殷)を寵(メグ)まれんか、(竜神は)諾せざるか 二月」 ー 植物の作付けが出来ない、王の心痛を思う甲骨文卜辞の記録である。神と交信する巫覡(フゲキ)は文字を生んだ。竜の文字は頭に辛字形冠飾りをつけた蛇身の獣形で表わされる。霊獣たることを示す。三千三百年も前の人の考えが文章で、直筆の書であることが凄い。又、竜の頭部に自己詛盟の辛字形(白川静 字通)を当てた巫覡の創意信念は更に凄い。詛盟の毀損は許されない。逆に、河川の氾濫を恐れ予告する虹竜の卜辞もある。
殷の氏族は競って酒を醸し、青銅器を誇って祭祀に励んだ。鴟鴞尊 虎食人卣に酒を盈たし、数々の彜器(イキ)に供物が盛られ、鼎に肉が煮られ、巫覡は天帝に祈りを捧げた。然るに亀甲卜占は、結局は王の、我欲である。神権政治は最後に悲劇を生んだ。心労が重なり、ストレスを増幅、悪夢に魘(ウナ)され、歯痛、狭窄、単なる事故までもが誰か恨みある者の呪い、異民族の祟りとなった。猜疑心を掻き立てられ、故なく他部族を攻撃、霊験なき巫覡は容赦なく殺された。
周王武の軍師呂尚は亀甲卜占を信じない。元肉屋職人の呂尚にとっては牛や鹿の骨は単なるガラ、亀の甲に天下国家の事象が解ってたまるかと足で踏みつけ、叩き割った。呂尚が信じたのは周易の合理性である。天体の運行から割り出される予測可能な自然現象であった。周易には水田耕作を通じて代々受継がれた永い蓄積があった。理不尽な殷を攻めるにはどうしたらよいか。横暴極まる殷には四方に反感を持つ部族が居た。今、殷の軍隊は人方、沿海地方へ遠征している。安陽を襲撃するのは今しかない。伐たなければ伐たれる、周が生き残る道であった。然し、途方もなく広大な大陸で殷に対抗する七部族の勢力が、敵にさとられず、同時刻一箇所に集結するには、どうしたら可能か。呂尚は冬至の満月から次の新月、明けの明星が東の空に輝く早朝、牧野に全軍を糾合した。金星は8年ごとの周期で同じ場所に光り輝く一等星である。武王の軍が聞夙(モンシュク)眞暗闇のなか、金星を目印に集まり進軍したことが、昭和五一年(1976)発見された簋器(キキ)、周易利が恩賞として賜った利毀の金文に刻されている。歳鼎(サイテイ)、その解読によって殷の滅亡が歴史上確認された。七部族の運気「牧誓」は雲を呼び竜となって殷都を急襲したのである。甲子未明に始まった戦いは半日余りで終結した。竜は冠飾りのある霊獣である。辛字形の冠は傲りを瞋(イカ)る、傲る殷王紂は天命を失った。鹿台に火を放って紂王はその中に消え殷は滅亡した。然し、殷墟が発掘されて明らかになったことは、歴史上伝えられているような、紂王は根っからの馬鹿者、淫蕩、無慈悲な道楽者ではなかった。国政を疎かにしていないし、祭祀を怠ってもいない、牧野の戦いで周軍は姐己(ダッキ)の首を槍の穂先にかけて凱旋したというが、現実には姐己の実在した形跡もない。唯、紂王は権力者が陥り易い 財宝を好み、猜疑心の強い野心家ではあったようである。ー と現代の歴史家は語る。
武器、利器のはじめは斧鉞(フエツ)である。石を棒に括りつけて相手を打ち倒す斧のこと、父の字源はクロスした闘斧の形である。鉞は青銅のマサカリ、王権の象徴であった。次に戈(カ)、矛(ホコ)、弓がある。弓の矢尻には尖った小石、骨、隕鉄が使用された。鏃と書き、一族で行動する鉄族の意がある。隕鉄はやがて青銅にとってかわる。遊牧民は青銅内反りの刀子(トウス)を持つ。戈、矛など青銅の利器は殷の時代発達した。西周後期になって剣(ケン)と戟(ゲキ)が出現、戟は敲(タタ)き突く武器である。劍は「周礼」考工記に「桃氏劍を為(ツク)る」の記述があり、桃氏の劍と謂われる。基本的に劍は人を切るものではなく、神の降臨を請い祈るものである。劍には恭儉の意があり、利器を持って2人が共に舞う姿であると字源は語る。劍柄分離する琵琶形遼寧式銅剣と河套、万里長城北部黄河屈曲部一帯をさすオルドス式有柄銅剣がある。漢代、鉄の普及と共に発達した片刃の長剣は刀(トウ)である。劔の文字は日本、倭の異体字である。天叢雲劔がこれに当たる。
最古の人口鉄は、塊錬鉄の短剣で河南省西周末の墓地から発見されている。鉄の塊を叩いて延ばしただけの短剣である。
春秋時代、荘子養生主編に庖丁(ホウテイ)文惠君の為に牛を解く、故事がある。游刃有余地(ゆうじんよちあり)は横山大観画伯が描いた。その料理刀は白鷺の羽根のようである。無窮を逐う大観の、わかったようなわからない習作である。資料11
玉器についてもう少し考察してみよう。玉器は揚子江文明に逸品が多い。主に崑崙が産地。楚の「和氏(カシ)の璧」は趙に伝わり、秦の昭襄王が五つの城と交換しようと持ちかけた。其の交渉対決の場で、黙って置いて行けと言わんばかりの秦の嫌がらせ、圧力に屈せず、礼節を弁えた胆力機転で無疵のまま持ち帰った藺相如(リンショウジョ)の「完璧」の故事は名高い。連城の璧とも言われる。璧とは中央に穴のある平たい円板状に作った玉器のことである。たかが石をと言う勿れ、たった一枚の紙切れに家内安全、福徳長命 交通安全まで書かれた神社札とは訳がちがう。ホータンの玉には光が籠る。恰も生命が宿っているようである。人徳のある王侯貴族の持ち物で代々継承され、その印符は国軍統帥の象徴でもある。
秦末、項羽と劉邦の逐鹿戦で、項羽は鋸鹿城の章邯戦(ショウカンセン)に手間どって長安進攻に遅れた。その時、函谷関を閉められたことで項羽は激怒、盟友ではなかったか、敵対なら劉邦軍を蹴散らすまで、最良の口実が出来た。その機会であった鴻門の会。老軍師范増は、劉邦の腹のうちを見透かしていた。この機を逃せば以後災いが項羽軍に及ぶ。玉玦を握りしめ、三度持ち上げ、目くばせしたが、項羽は動かない。謝罪され、大王と奉られ、自尊心をくすぐられ、何時にもなく鷹揚に構えていた。剣舞に殺気を感じた劉邦は張良の機転で義弟樊噲(ハンカイ)に守られ、尿意を理由に宴会場を出、そのまま去る。絶好の機会を失って范増はくやしがった。言葉もかけず酔いのせいで退席した非礼、おわびにと項羽に贈られた白璧、自分が貰った玉斗は長剣で叩き割った。
5千年前から始まった地球の寒冷化とともに中国東北部の紅山文化は衰退した。北方の遊牧民族は南下、遼寧地方で半農半牧の生活を営み、青銅器の文化を伝えた。黄河中下流域では、夏の王朝が400年、次いで商、殷は600年栄え、青銅器の文化を発展させた。朝鮮半島では伝説の檀君朝鮮があり、濊貊(ワイハク)族が暮らしていた。BC1046年、殷は周の武王に滅ぼされ、紂王の叔父箕子は朝鮮半島に逃れ、そのまま封じられた。春秋時代、鮮卑系山戎は遼寧地方に居て燕、斉諸国に侵攻した。モンゴリアに居たツングース系の民族、東胡も匈奴を圧倒して一時遼寧地方に勢力を伸ばした。戦国時代、燕の昭王は将軍秦開を遣わして東胡を討ち、東胡系の一派は朝鮮半島大同(平壌)に寄着した。燕の鉄器、斧、鉄、鎌、包丁が流入して畑作文化を形成する。BC3世紀末より匈奴が活躍、冐頓単干がモンゴルの諸部族を統一。戦国末期、荊軻(ケイカ)は燕の密命を受けて始皇帝暗殺を図る。秦、燕を討つ。BC221年、秦中国を統一、秦の統治は僅か20年、漢は秦を滅ぼし、故地に候を封じたが、燕は離反、燕王盧綰(ロワン)は匈奴に亡命したが、配下の衛満は箕子朝鮮40世準王を頼る。後、準王を追放、衛満独立、衛満朝鮮となる。準王は馬韓に逃れ、自立して王を称したが、消滅する。
BC108年、漢の四郡政策により、武帝は衛氏朝鮮を破り、楽浪外四郡を置く。漢の四郡政策に抵抗する過程に於いて民族意識に目覚めた高句麗が、いち早く半島北部に国家を成立。前2、1世紀、馬韓、辰韓、弁韓は連盟体を形成した。馬韓50余国、辰韓、弁韓は夫々12カ国から成る。BC72年、漢の宣帝は五将軍20万騎をもって遼寧地方を征戦、匈奴は遠く逃げ、遼寧に暮す枝分かれの一団が豆満江を渡り南下、東海岸沿いに馬を走らせ、鳥を追い、洛東江下流まで押し寄せ定着した。この一団こそ、オロチョン、オロチ族であろう。そして現地の鉄文化と競合した。辰韓は半島南端、蔚山、旧意呂山(オロヤマ)から洛東江下流一帯に溶融炉、鍛治精錬の跡を残している。鉄器と共に青銅器、スキタイ式動物の意匠を透かし彫り風に表現した銅板や、慶尚北道 漁隠洞遺跡からは四乳地竜文鏡が出土し、それは遥か北方、遼寧省西ホン溝から変形四虺文鏡が出土していて、そのオリジナルが対馬に存在する。
魏書、東夷伝、弁辰条には、
「国は鉄を出だす。 韓、濊、倭は みなほしいままにこれを取る。諸々の市買はみな鉄をもちう。
中国で銭をもちいるが如し、又、以って二郡に供給す」と記録する。
再び、
硬玉の文化は、ここでは勾玉となり、勾玉は動物の凝固脂を虺竜形に切り取った魔除けの形に似ている。勾玉は韓国と日本以外では見られない。勾玉は早い時期の日本では筑紫平原遺跡から首飾りと共に丁字頭の勾玉が発掘されている。丁字頭は頭部に3本の筋のある古い時代の勾玉である。筋が何の為にあるのか、これは不明で考古学の見解が待たれている。出雲大社蔵の重要文化財、見事な水晶ブルーの勾玉には筋がない。富山糸魚川産の石で、四世紀後半のものであろう。韓国にはヒスイの原産地が見当たらない。鉄と糸魚川産のヒスイと交換されたとする見方がある。初期平原遺跡の勾玉はガラス製である。ヒスイは日本の交易の嚆矢かもしれない。誠に三種の神器たり得る。玉竜は中国で漢代、軟玉の觿(ケイ)となり、韓国と日本では硬玉の勾玉となった。勾玉を胎児の形とみたり、再生を告げるお玉ジャクシの形であったり、獣牙、狼の牙説もあるが、それでは単なるアクセサリーとはなっても神器とはなり得ない。3本の筋目は、觿の向かい合う雌雄双頭の竜を意味しているのではないか。清酒白鶴辰馬考古資料館の勾玉には二つのコブがある。「考古学者、梅原末治は、この種の禽獣魚形勾玉が勾玉の起源だと考えた」(梅原猛)又、日本最古の王墓、福岡市吉武高木遺跡出土の勾玉には目も口も足もある。
では、山門の竜が法堂(ハットウ)の天井から八方を俯瞰、智恵の雨を降らせ、心眼を開くとは何か、それはどういうことか。竜が単なる吉祥と守護の象徴から法力と知能を得て人間以上の存在となったことを意味している。勿論、竹林の七賢の清談に思いを馳せ、生死の公案を会得する道場の竜ではあるが、龍雲寺の蟠竜は目の前の日本海のZ海域に落下したテポドンに瞠目、G7国際会ギ、広島サミットに心を砕いている。日本の国家安保戦略は近年、敵基地攻撃能力の保有に力点を置くが、対話や緊張緩和の努力、その視点に欠けてはならない。驕れる者久しからず、テポドンは最強であるが、無慈悲は共に滅ぶ。以下墨絵8点から竜のヒューマニティーを
海北友松の障壁画の竜図には武士でありながら共に戦えなかった悔しさ、悲しさ、苦渋の思いがある。加山又造の竜には空腹に耐えられず、画材の膠を溶き舐めて遺り過した画学生時代を忘れず、太平洋戦争への怒りが怒涛のタッチで描かれている。狩野芳崖の親子竜は平和への思いがある。異端の画家、長沢芦雪、曽我蕭白の竜は狩野派への対抗心、「図は知らず、絵は我へ」と独歩の気概が滲んで抒情的である。昭和6〇年であったか、はるばるボストンから蕭白の竜が一時里帰りした。天王寺美術館に展示され、紙幅16メートルの長大な竜が涙ぐんでいた。堅山南風、横山大観の竜は穏者の風、大宇宙に遊ぶ竜の心があるとか。伊藤若冲の竜は、ビックリ驚天、青天の霹靂。皇帝になりたい者が兄弟国の都市インフラを破壊し、市民を虐殺、土地を奪う矛盾は蔽い難い。「拝啓プーチン様、正しい道を。(今からでも遅くありません)、あなた一人の決断によって地球の未来が変わります。どうか良い選択をして下さい」朝日新聞『声』14才。世界にノーサイド精神を。これらの絵には竜のヒューマニズムがある。
紀元AD147〜188年倭国大いに乱れる。卑弥呼が倭国の女王に共立される。魏は対高句麗戦の最中に、倭と軍事同盟を結ぶ。239年、邪馬台国女王卑弥呼は魏に朝貢する。魏からは
銅鏡百枚
5尺の刀2口
赤地に2匹の竜を描いた、降地交龍の錦織を拝戴、親魏倭王の称号を与えられた。
5尺の鉄刀は環頭の大刀で、福岡向原遺跡の素環頭大刀、奈良東大寺山古墳出土の鉄刀が時代的にこれに当たる。
大陸からの渡り鳥は田畑の穀類を啄み、オロチョン族の末裔は鳥を追い、鏃を求めて海を渡った。いつしか、芸北の渓谷に炉を築き、鉄を叩いて農機具を提供した。しかし、生活習慣の異いは軋轢を生んだ。農耕民は山を焼き、地を耕し水を引いて穀物を育てる。一方、狩猟民は大地を傷つけることをニガニガしく思う、糞尿の田畑を穢れとして嫌った。南方渡来の農耕民には歌垣の風習がある。村々が協力して暮らす村里では田植え神事のあとの村祭りには若者は誰と恋をしても良かった。一方狩猟民は一族の結束が固く、一方的、かたくなで、逆に欲しいものは腕ずくで獲る。オロチは村娘を要求した。古事記のオロチ神話はここから語られる。
記紀によれば
須佐之男命(素盞嗚尊)は新羅より其の子 五十猛命(イソタケルノミコト)を帥(ツ)れて埴土の舟に乗り、出雲の国、肥の川(簸之川)を遡上、鳥髪の地(船通山)に至ったことになっている。
ところが、日本書紀に記紀以前の一書では
素盞嗚尊は島根と広島の県境 安芸の国、可愛(エノ)の川上に下り至ると書かれている。
一書曰 是時素盞嗚尊下到於安芸国可愛之川上也 (江ノ川の最上流)
言いかえれば、韓半島東部から春の大南風で対馬海流に乗り、石見の海岸浜田湾に上陸、周布川上流から山越えして江ノ川の西の水源、千代田の土師ダム辺りに到着したことになっている。百歩譲って別の見方では、斐伊川を遡上、鳥髪の地でオロチ族の首領を討った後、次々と根城を襲い、可愛の川上に至ったことになる。その昔、須佐之男命は芸北加計に降り立ったという伝承もある。加計は周布川の上流から臥竜山を超えた大田川の水系にある古い鍛治の町である。何れにしても、遠呂智の中尾とは石見西部の山中で、天叢雲劔は発見されたことになる。そこから部下に言付け、周防灘へ出て天照に献上されたと解釈すれば流れが自然である。臥竜山は鳥髪山に比定する。ところで、八俣遠呂智の八俣と智は中国山脈の八ケ所の池を意味して書かれたのではないだろうか、オロが山岳ならチは池、もともとオロチは沿海州山脈、長白山脈の山岳に池のある土地に棲む人々を指した言葉かもしれない。
参考までに中国山脈で八ケ所の山と池は 資料27
⑴ 船通山、鳥髪山(1142m) さくらおろち湖 奥出雲
⑵ 比婆山(1264m)立烏帽子山(1299m)灰塚湖 三次
⑶ 大万木山(1218m) 琴引山(1013m)木島湖 出雲
⑷ 三瓶山(1126m) 志津見湖 太田
⑸ 寒曵山(826m)堂床山(740m) 土師ダム湖 千代田 江津
⑹ 阿佐山(1218m)冠山(1003m)仙水湖 北広島
⑺ 雲月山(911m)大佐山(1069m)龍姫湖 浜田 安芸
⑻ 臥龍山(1223m)聖山(1113m)聖湖 三段峡 浜田 芸北
⑼ 恐羅漢山(1346m)十方山(1328m)立岩貯水池 匹見峡 益田
⑽ 野道山(924m) 大蔵岳(834m)阿武川ダム湖 大原湖 萩 津和野 等がある。
柿本人麻呂が原・古事記を書いたという見解がある。
柿本人麻呂の生没年は未詳である。その場所も死因も本当はよくわからない。考えられる生年は人麻呂であることから、ヒノトヒツジ丁未の生まれ、西暦647年である。生まれた場所は日本であったとは考え辛い。人麻呂の識字力、学識、歌才、当時の社会環境から韓半島南、新羅ではあるまいか。前漢時代、武帝の対外政策に刺激されて韓半島でいち早く斯廬国から独立の機運が生まれ、四世紀頃、諸国を統一して新羅と号した。唐と結び、百済、高句麗と戦い、又、唐を追い払い、668年朝鮮全土を統一した。935年高句麗に滅ぼされる。
人麻呂は幼少期、ある程度の高い教育を受けられる環境にあったと思われるが、半島の動乱で海を渡り、石見益田戸田村で少年期を過ごした。そして、15歳の頃、親族を頼って上京し、大和稗田村の柿本一族の元で暮らした。柿本家は代々鋳物師の家系である。家業を手伝いながら勉学好きの青年は大和各地に伝承される王家貴族の歌を採取する日々を送った。後に、採録された歌の数々が大伴家持に受け継がれ万葉集となり、日本語の表記に大きな役割を果たしていることが近年の研究で指摘されている。
壬申の乱が終わり 天武三年 西暦675年礼学振興が発令され、優秀な若者に、帝紀や旧辞の乱れを正し、古事記編纂が下命された。人麻呂28才の時である。そして、人麻呂は30才から35才の頃、朝集使として石見周布と播磨守に赴任している。原古事記はこの頃、構想が練られ、書き上げられたと考えられている。
おのころ島の発想は明石海峡から瀬戸内海を旅した折、目にした製塩の方法からヒントを得たものであろうし、遠呂智神話は朝集使として山岳を歩き、かって来た道、津和野から日本海へ抜け、益田から石見周布、そこから山越えして更に芸北、加計にかけて臥竜山を踏破した時に、伝承をもとに構想を得たものであろう。加計は古来製鉄の街として知られている。臥竜山には山岳民オロチ族の部落、鉄炉の跡があった筈である。オロチの目が充血してアカカガチのようであったとは鋳物師の家系として、彼は見過ごすことはなかった。そして、かって、一族の命運を左右した高句麗との戦いに常にオロチ族の影があったことを伝え聞きしていて、神話にその呪われた過去と平和への祈りを込めた。
人麻呂が歴史の表舞台に登場するのは天武帝が崩御し、日並皇子に供奉した690年で、冬猟歌が人口に膾炙されている。人麻呂45歳の時である、生涯多くの歌を残し万葉集中、長歌、短歌の採録された数は他の歌人より郡を抜いて多い。持統天皇の時、伊勢への遊行に供奉が許されず、その頃から次第に政権の中枢から遠避って行くことになる。人麻呂にとって残念な時期ではあるが、彼が余りにも諄厚素朴で飛鳥にこだわり、庶民の労役を思いやり奈良遷都に批判的であったためか、白村江の戦いで唐と敵対した筑紫の王、壬申の乱で天智寄りであった筑紫の王朝を懐かしむ歌を多く残した為であった。このことは唐との関係を重視した藤原不比等政権を刺激した。人麻呂は疎んじられ、彼の業績は抹殺、削除され始めた。古事記編纂が遅れ、一時中断されているのはこれらのことが原因であったのであろう。
人麻呂は710年旧暦三月 現地妻を偲んだ鴨山の歌を残して石見で没した。官位を剥奪されていたのであろう、その公的記録はない。
古事記は発令から37年、奈良遷都後712年 安倍仲麻呂、稗田阿禮によって朝廷に奉呈された。最後に古事記で大事なことは、人麻呂が出雲須賀の地で清々しいと書きこむことはあり得ないことである。人麻呂の子供、躬都良は壬申の乱に連座して隠岐に流されている。人麻呂は出雲に足を踏み入れることはなかった。許されないことである。
須佐之男命がオロチを退治して天叢雲劔を部下にことずけ、周防灘から天照に献上、其後、須賀の地で櫛名田比賣と一緒に暮らした遠呂智神話の結びは藤原政権の意向が描いた出雲郷の美しい物語である。歴史小説家のなかには、古事記の記述の随所に女性らしい視点が見られるところから、「アメノウズメの後裔で、芸能を得意とした猿女君(さるめのきみ)一族の女性が稗田阿礼である」という見方がある。
併し、誰が誦習し、景色が美しく変わるにしても、100日の天気と自然川砂鉄、野鉄炉(のだたら)のない処にオロチ神話は成り立たない。その場所は石見西部、芸北加計と浜田市黒川を結ぶ広域線上にある ― そのことは自信をもって発信できる。
了 2022・10・21
写真は周布の大麻山が望める田ノ浦へと続く石見の海岸と福浦港。人麻呂は右の歌の内容から周布郷を発って益田に至る三保三隅の沿岸沿いの道を歩いた。古事記の「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに」は「石見八重垣」で海岸沿いに歩いた人麻呂が大麻山の向こう周布郷の妻を偲んで詠んだものであろう。送別の歌にも「心配するなとあなたは言ふけれども」と妻籠もれる娘子(いらつめ)の気持ちが溢れて詠まれている。後年、万寿三年の石見大地震により海岸の道は途絶え、大きく内陸に迂回して元の道はわからなくなった。
1、「鉄—塊の鉄が語る歴史の謎」 北里大学教授 立川 昭二 昭和41年7月 学生社
2、「シベリアの古代文化」 アレクセイ・オクラード・ニコフ
加藤九サク 加藤晋平訳 昭和49年8月16日 講談社
3、「古田史学会報」 no,120 no,124 no,128 昭和63年・平成26・27年
4.第22回 「国家と鉄」の謎にせまる 平成21年10月 朝日新聞
5、鉄の弥生時代 ―鉄器は社会を変えたのか?—
大阪府立弥生文化博物館 会館25周年記念 平成28年度春季特別展 産経新聞
6、中国古代史 昌平塾
7、古事記現代語訳、記紀原文
巻頭 イラスト 葉蘭切り 竜 大阪調理士 養成会 垂水 庖士
古事記編輯者は中国山脈の8本の河川と山岳に暮す狩猟と鍛治を活計とするオロチの一族一統を指して八頭八尾一胴の大蛇、八俣遠呂智と表現した。その大きさは谿八谷峡八尾(タニヤタニヤオ)に渡り、背には蘿桧杉(コケヒスギ)が生え胸ばらは赤く、酒と鉄炉の火でただれ、目は鬼灯(ホオズキ)の如く血走り真赤であったという。それはいい。併し、オロチの草薙剱は神剣、そのオロチが何故悪竜、大蛇なのか。悪竜の持つ剱が神剣となるのか。酒に酔い、女に狂って名剣が打てるのか。
遼寧地方 北方ツングース系の狩猟民オロチ族が、BC72年、前漢宣帝が匈奴を攻め、その戦いの余波で豆満江を渡り韓半島を南下、蔚山(ウルサン)旧意呂山で辰韓の鉄文化と競合した。更に内乱を避け、日本海を渡り、中国山脈に入り、鉄を敲いた。日本の古墳時代、王権が紡がれ、663年、白村江の戦いを経て渡来した文化人が古事記、日本書紀 編輯に携わり、北方ツングース高句麗系靺鞨(マッカツ)族に敵意を抱いていて、北方虺竜文化を南方の竜神信仰に対し、悪竜に仮託してオロチ退治を語った。記紀神話は草薙剱が神器となって後、矛盾を孕みながら構成された物語である。山岳狩猟民は後のマタギ、竜巻きや洪水が民家を襲ったという歴史なら兎も角、マタギが酒と女を喰らったというのは山岳狩猟民にとって謂れなき中傷である。マタギの生活は禁欲的である。寧ろ、飛鳥時代 新政権監吏の特権意識には目に余るものがあったのではないか。酒乱淫行を見るに見かね、オロチ物語りの中で太安万侶は暗に酒と女で乱れることを戒めたのであろう。そのことは万葉集の中に暗号を使って詠み込まれた人麻呂の歌が数首ある。
石見神楽継承保存の為に 垂水 烽士
あ と が き
当小冊子(知人用にA4サイズ約90ページを作成)は 古事記神話 八頭八尾一胴の八俣遠呂智とは一体何者か!オロチの中尾から出現した天叢雲劔とは、それは時代的に銅剣か鉄剣?何故それがオロチ・大蛇の中尾からなのか、そんな疑問から始まった。オロチ、大蛇は竜の形、大蛇と竜の明確な区別は見当たらない。竜は変幻自在である。
竜の歴史をたずね、玉竜をたどって五千年、中国では貴族のお守りとなった觿(ケイ)と 日本では三種の神器のひとつ勾玉となる。又、青銅の竜は永い戦乱の歴史を経てリアルな竜図となり、仏教東漸の教化とが相俟って竜神は天空を駆けめぐる。ところが、日本の建国神話古事記に登場する竜は悪竜・大蛇に仮託されたオロチ族退治である。しかし、古事記は基礎資料を抹消された口述筆記、飛鳥の王権のもとで編纂された。舞台は出雲であるが、その出雲国風土記にオロチ神話は一行もない。不思議な話である。
コロナ禍の三年間、古事記と万葉集を行きつ戻りつ、中国青銅器の解釈は眺めるだけ、暗中模索、書いては消し、試考(・)⁉️錯誤の竜神の旅であった。誤りがあれば 御教示願いたい。中国史、朝鮮史、又、小冊子作成については昌平塾内田先生にお世話になった。謹んで御礼申し上げたい。今、稿を終えるに当たって、・・・。