柿本人麻呂 終焉の地

●2019年10月更新しました●

概      略

柿本人麻呂終焉の地について
昭和十二年、アララギ派の歌人 斎藤茂吉は『柿本人麿鴨山考』で、残された万葉五歌の理想郷を求めて江ノ川の上流を目指し、三瓶山麓 湯抱に鴨山を探し当て、疫病死説終焉の地としました。昭和五十年、哲学者 梅原猛教授は、これを『水底の歌』で徹底的に論破、人麻呂は島根県仁摩町宅野の沖、韓島に現地妻と共に軟禁されていて、四月のある日、そこから南西80㎞、益田沖の鴨島に連行され、水死刑にされたと推論されました。


しかし、それなら何故、途中40㎞、浜田湾の亀山城跡沖では都合が悪かったのでしょうか。浜田湾には人麻呂終焉の歌の「鴨山」と現地妻の返歌にある「石川」も存在します。現在の亀山城跡は、もと鴨山で、浜田川は かって 石川と呼ばれていました。梅原先生は郷土史家 藤井宗雄氏の亀山城跡浜田説の誤謬を指摘されるのみで検証はなく、矢冨熊一郎氏の益田説を支持、室町後期、江戸中期の古文書資料の実証を急がれていました。

又、現地妻 依羅娘子の住居は斎藤茂吉説以来の国府以北仁摩でしょうか。それも不可解。浜田湾の南、周布の鰐石遺跡からは南方稲作民の石器「穂摘み」が発見されています。古く氏族単位の墓制も存在しました。周布古墳からは子持ち須恵器も出土しています。須恵器は大阪南部を中心として全国に広がったものです。依羅一族は稲作民の「歌垣」の風習を持ち、小集団で漁もする網元、つまり氏族の娘ではなかったか。残された万葉二首の返歌からは野良着だけの女性ではない、歌の感性と教養を感じます。そして柿本家は鑄師を家業としており、人麻呂は砂鉄の朝集使として若い頃周布に赴任していたことも、今日では知られています。当時は瀬戸内海から津和野経由で石見に入り、浜田川の黒川に着目、三階山、唐倉山。大麻山、周布川辺りは調査の範囲であったのでしょう。

最晩年、藤原不比等政権から離脱した人麻呂は、この時は律令体制が全国に及ぼうとした時代、出雲、石見路を南下して長い旅の終わり、鴨山付近で一夜をとり、さあ、明日は懐かしい妻の住む周布である。自分達夫婦の別居生活を鴨山の一人寝の寂しさにたぐえて歌枕に、しかし、今ここに自分が居ることを妻はまだ知らない、「待ちつつあらむ」と詠んだのではないでしょうか。

 

鴨山の磐根し枕ける   吾をかも   知らにと妹の  待ちつつあらむ

 ところが、春の嵐、夜半の豪雨で浜田川が氾濫、浜田湾一帯は水浸しとなり、歌人は海に流され溺死した。それは周布川についても同じで現地は大混乱、遺体は上がらず、依羅一族以外 馴染みのない旅人のこと、何時しか忘れ去られたのでしょう。更に其後の万寿三年、石見大地震の天災もあって、一三〇〇年後の今日、人麻呂終焉の地は、歌人、哲学者、古代史家と三者三様の目で語られることになりました。本稿は古田武彦先生の講演記録と『人麻呂の運命』をもとに浜田説にエールを送るものです。

はじめに

万葉集には柿本人麻呂終焉之地を伝える歌が五首あります。その歌から推定される終焉の地は奈良県に一ヶ所、島根県石見に3ヶ所です。
万葉集は奈良時代末期に、その350年も前 仁徳天皇時代から蒐録された中央集権律令国家誕生の活気に満ちた白鳳時代、天平時代の和歌集です。橘諸兄と大伴家持共撰で編纂されたと考えられています。音訓混合漢字表記全20巻4516首収められていました。しかし、大伴家持が晩年、藤原種継の暗殺に加担したという嫌疑で罪人となった為かえりみられることなく、平安中期になって初めて梨壺(ナシツボ)・撰和歌所の五人の歌人によって仮名の訓読—古點が打たれました。更に鎌倉時代中期、天台宗の僧 仙覚は20巻すべての歌に訓詁を試み、新點ができましたが、四百年の空白と和漢混交の音訓当て字で、詩経や論語に仮名をふるより難解なものになっていました。其の後、江戸時代前期の国学者歌人、浪花の釈契沖によって元禄時代1688年注釈書「万葉代匠記」初稿本が成立。そして江戸中期の加茂真淵、本居宣長によって助詞等の研究が進み、明治初年には土佐の人で鹿持雅澄の「萬葉集古義」が勅板として世に出されました。

今日では大正、昭和初期の国学者、歌人の更に並々ならぬ努力で現代語訳万葉集が一般家庭でも置かれるようになっています。万葉集は上は天皇から下は庶民、遊女乞食、集団発生的な民謡歌まで膨大な内容の歌集で万葉の人々のかざりのない心、生活様式、社会政治状況等歴史の襞を知る貴重な古典となっています。万葉集20巻中に人麻呂の歌は長歌19首、短歌71首が採録されています。終焉の地について知り得る歌はその中に臨死の前日の1首のみ、全編中では反歌、報歌、追悼歌を含めて次の五首のみです。

柿本朝臣人麻呂 石見国に在りて死に臨(みまから)む時自ら傷(いた)みて作る歌一首

   鴨山の 磐根(いわね)し枕ける 吾をかも 知らにと妹の 待ちつつあらむ   223

柿本人麻呂死時 妻依羅娘子( よさみのおとめ)の作れる歌二首

   今日今日と 吾が待つ君は 石水の 貝に交じりて ありといはずやも      224

   ただの相いは 相い耐えざらん 石川に 雲立ちわたれ 見つゝ偲ばむ      225

丹比真人某、柿本朝臣人麻呂の意に擬(なぞら)えて報(こた)ふる歌一首

   荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ       226

或る本の歌に曰はく

   天離(あまざか)る 夷(ひな)の荒野に 君を置きて 念(おも)ひつつあれば 生けるともなし   227

柿本人麻呂終焉の地が奈良県五条市から吉野辺りであれば不明ということはまずありえないでしょう。

(一)「柿本人麻呂鴨山考」より

太田市三瓶山麓 湯抱 鴨山説  (疫病死説)

 柿本人麻呂の多くの万葉歌は現代日本語表記に重要な役割を果たしていたと云われています。そのような日本を代表する歌人終焉の地が石見に三ヶ所とは不思議ですが、有難く面白く嬉しいことです。もともと柿本人麻呂終焉の地は萩、津和野に近い石見益田市の沖合一キロメートル、日本海に水没した鴨島と石見の中心浜田市亀山城跡鴨山に言い伝えられていたことですが考古学的な確証はなく、そこに、昭和九年アララギ派の歌人 斎藤茂吉氏が全く別の場所、太田市三瓶山麓、江ノ川の上流であると「鴨山考」を発表されました。そこは江ノ川が三瓶山に向かって流れ、西南に大きく蛇行する現在の三江北線JR浜原駅粕淵一帯亀村の津ノ目山(ツノメヤマ)、亀村なら亀山とも呼ばれていたであろう、カメはカモに通ずる鴨山のことであるとされたのです。其の後津目山は地元の青年の手紙で、そこから更に西北の支流、姫谷川沿いの太田市三瓶山南麓 湯抱鴨山に訂正変更されました。土地台帳が確認され通称芝刈山がくだんの鴨山のことで最終的に人麻呂終焉の地であるとされたのです。斎藤茂吉氏五十五歳のときでした。

  斎藤茂吉(以下敬称略)は山形県の出身、東大医学部を卒業、二十六歳でアララギ派歌人となり、大正十年四十歳の時ドイツに留学、三年の留学を終え、帰国する半年前の早春ドナウ川の源流を旅してます。医師であるかたわらアララギ派歌人として柿本人麻呂万葉歌の注釈書を完結する為にはどうしても人麻呂終焉の地を探しあてねばならないという長年の思いがありました。柿本人麻呂が死に臨んで残した「鴨山の磐根し枕ける」とはどのような山か、現地妻 依羅娘子(ヨサミノオトメ)の返歌「石川に雲立ちわたれ」とは何処の川か、望郷の想いに駆られた時、最上川の桜と 霞む川原、深い淵がドナウの源流へ旅立たせたのでしょう。

アララギは奈良時代の正装用手板、笏(シャク)を作った櫟(一位)の異称です。伊藤左千夫の主唱する重厚な万葉調写生短歌の会でその頃 茂吉はすでに主導的立場にありました。
 人麻呂終焉の地は自分が探す。真実を探し当てるのは自分しかいない、その思いが信念となっていたのでしょうか。帰国後、石見の鴨山と石川を探して云い伝えの残るそれらしい地を訪ね歩きました。しかし、いずれも彼の歌のイメージに合いません。石見益田沖の鴨島は水没して今はないし、白浪の立つ海原を眺めて水没する程度の小嶋では話しにならない。まして鴨島は鴨山ではない。   益田は人麻呂生誕の地と云われるが、それかて子供じみた伝説にすぎないではないか。

 浜田市亀山城跡鴨山と浜田川はこれまた箱庭としか思えない。三〇メートルの亀山は丘であり、二五メートルプール程度の川原はせせらぎで上流は沢に近い。磐根しまける鴨山はどっしりとした三〇〇メートル級の山でなけねばならない。石川に雲立ちわたれと言うからには水量豊かな渓谷であろう。「天離る夷の荒野」とはどこか。「磐根し枕ける吾」とは一人寝の侘しさで妻がそれを知らぬとはどういうことか、国府から十数理は離れていたからであろう。返歌の「石水の貝」の貝とは石川のどこか山峡のことで峡は古訓でカイと読む。結局、石川とは江ノ川に外ならないと結論づけました。

 江ノ川は山陰の雄、能無し川などと悪口は言われるが水量豊かで何より渓谷が美しい。川本町、石河邑(イシカワムラ)の上流辺りに見当をつけ、ある日太田市からバスで江ノ川の中流を目指しました。粕淵から浜原へさしかかった時突然視界が開け、目の前の光景に電光が走り体の震えがとまらなかった、ここだと直感したと言うことです。深々と水をたたえた清流と重層の山、紫雲棚引く風光明媚な一帯が万葉歌に残された歌意とイメージがピッタリ合ったのです。そして更に西北四キロ、姫谷川沿いには現実に鴨山がありました。
歌人茂吉が長年想い描いた歌の現実の地でした。鴨山をついにつきとめ、その歓喜の気持ちを詠んだ歌が最晩年の自筆揮毫で歌碑となって現地湯抱公園に建てられています。

 人麻呂がついのいのちを をはりたる 鴨山をしも ここと定めむ

 同時に柿本人麻呂全五巻を発表
 昭和15年帝国学士院賞を受賞       58歳
 昭和26年文化勲章を受賞         69歳
 昭和28年71歳で永眠 
 昭和62年竹下登首相の故郷創生1億円で国道沿いに斎藤茂吉記念館が建設される
昭文社62年版島根県地図でも湯抱に柿本人麻呂終焉之地と記載されていて柿本人麻呂の歌碑も数首建てられています。
湯抱公園検索参照

さて、昭和初期いきなりの茂吉説に困惑した益田市柿本人麻呂神社の神官や浜田市の国学者は反論しようとしましたが、それを予期していたかのように斎藤茂吉はいち早くこれを牽制、田舎の郷土史家ごとき、何度言っても歌の心のわからぬ大馬鹿者と痛罵しました。当時の氏の見識と剣幕に圧され、石見人はそれっきり黙ってしまいました。
 死の直前 あのように淡々とした、恋慕の歌を詠める環境はここしかない。歌聖人麻呂が到達した凡人にはわからぬ境地である。現地妻の返歌が証明していると、ガンとして突っぱねたのです。
三本の河川で奏でられる筈の万葉の調べは青きドナウの曲に乗らず、最上川のさみだれに掻き消されてしまったかのようです。
斎藤茂吉医師の「鴨山考による空想的診断」では柿本人麻呂は下級官史であった為 死の公的記録は残らなかった。砂鉄事業の税帳使として三瓶山南麓湯抱に赴任、当時流行した疫病に患り急逝した。慶雲四年四八歳であったと。
年齢はおおむね 加茂真淵、契沖説に従っています。
 それでは疫病の遺体は他の多くの患者と共に「荒波に寄りくる玉を枕に」激流の川原に埋葬されたのでしょうか、何ひとつの墓標もなく。そして四八歳死亡ではそれ以前の年代が合わなくなることは、今日では明らかにされています。例えば子供の躬都良(ミツラ)が壬申乱で連座して隠岐に流された時期、官位を授かった年齢を考慮すれば逆算して六六三年の白村江の戦い当時人麻呂は少なくとも一六〜十八才となり生誕は大化の改新六四五年か六四七年丁未(ヒノトヒツジ)の年となります。従って死亡は慶雲四年(七百七年)では六〇歳から六十二歳です。推定年齢は修正できるにせよ、では六十余歳の老人を朝廷は砂鉄や鉄鋼石の採掘場へ赴任させたのでしょうか。かじや者の部落、鉄山(カナヤマ)はある意味無頼者、山師は荒くれでないと務まらない特殊な集団です。疫病患者の見舞いであると云われるのなら、彼は医者ではなく歌人です。又、白鳳十三年三瓶山は大爆発を起しています。以後爆発と地震を繰り返して現在の夫婦、孫の山容を呈しています。十数年の歳月があるとは言え、硫黄や炭酸ガスの噴出が続く場所で鉄の採掘が出来たのか。今日の志学温泉のシガクは死の岳です。そもそも炭酸ガスや硫黄の噴出する山に、何を好んでそんなところへ鴨が飛来するのでしょうか。大正十年の土地台帳に鴨山が記載されていたところで 今日でも邑智郡の邑智の意味さえ詳かでない一般名刺の鴨山が千四百年前の万葉歌とどれほど関連し信憑性があるというのでしょうか。よしんば鴨山と呼ばれていたとしても、それは鉄の採掘が盛んであった江戸時代からのことに外なりません。そしてこれも「鴨山考の想像」ですが人麻呂は備後から馬で中国山脈を越えたことになっていますが、それなら山脈のどこへ馬鈴を置いたというのでしょうか。そこから現地妻依羅娘子の住む浜田市国府へは同じ石見でも路は険しく妻とするには余りに遠い。道中江ノ川沿いの村里には何故か美人が多い、妻となる女性は何人も居た筈です。


 昭和30年代私達は斉藤茂吉説で人麻呂の石見の長短歌を教わりました。当時、教壇で解説された、五〇代であったか藤井先生の口ごもる困惑された疑問の表情を何故か今でも思い出します。

 
 
          

(二)「水底の歌」から

益田市高津川沖鴨島説 (水死刑説)

 柿本朝臣人麻呂は官位を剥奪されて罪人として海の底に沈められました。三瓶山の山奥湯抱などで疫病で死んだのではなく、日本海に石の重りをつけて沈められたのです。石見益田市高津川沖鴨島の荒波の底です。「人麻呂はここに居るぞ」と叫んで居ます。丹比真人某とは現地妻を知る先輩歌人でしょうか。真人は最高位の貴人で、朝廷の仕打ちに対する痛切な告発でしょうか。

    荒波に 寄りくる玉を 枕に置き われここにありと 誰か告げなむ    丹比真人某

 柿本朝臣人麻呂は高官であっても死罪なので公式記録が残っていないのは当然です。丹比真人某
ー名をもらしたりとは朝廷に睨まれることを避けて名を伏せています。朝臣人麻呂は藤原不比等政権に不満を持ったことで持統帝とも疎遠になり挙句、文武天皇の第一夫人との仲をも疑われ、恩知らずの人でなしと非難され不敬罪、邪魔者として流罪追放、結果死罪となったのです。国の将来を憂う詩人の正義感が裏目に出ました。朝臣人麻呂にとっては無実の罪で死罪となりました。無念さが怨霊となって祟ることがないよう遠い田舎の海の底に石の重りを括りつけて棄てられたのです。歌はそう伝えています。其の後政権が代わり、人麻呂公を慕う人々によって鎮魂の社が建てられました。しかし、300年後の1026年万寿3年丙寅五月海嘯が起り、大地震で島諸共海中に没してしまいました。その神社の痕跡が海底のどこかに残っているはずです。  


 昭和五十二年梅原調査団、報道陣も含めて四十余名の古代史研究者による綿密な海底調査が行われました。これでいよいよ結論が出ると期待されたのですが、海図による岩礁大瀬に地震の跡は確認されたものの社らしい痕跡は発見されませんでした。これまでの華々しい鴨島説は誤った伝承であったのか、或は一三〇〇年の歳月が一切を潮の流れに消滅させてしまったのか、それはわかりません。沖合い800m、水深3・5mに大瀬があって、古くから海難を怖れられていました。今回の潜水で水深17mに東西300m、南北200mの盛り上がりが発見されました。中程に亀の甲型の高さ15mの山、北側は切り立った形、南側は粘板岩のなだらかな斜面になっており、東側の平野部分から長さ4m 巾25㎝、厚さ18㎝の石柱と砂岩でつくられた、縦35㎝横13㎝厚さ8㎝の石棺の蓋の一部、石うす等七点が引き揚げられました。確証となる礎石の跡は確認出来ませんでしたが、後日、平成四年十一月、柿本神社に保管してあった砂岩の穴に付着していたフネ貝の放射性炭素C14測定で九五〇年頃のものであることがわかりました。万寿三年(1026年)水没との誤差は許容範囲でした。
 鴨島は水没していなければ周囲1kmの小島でした。刑吏に連行された人麻呂は、この小島の平野部で一夜を過し、七〇八年四月辞世となる歌を詠んだことになります。没後十六年、神亀元年(724年)二月、仏教信仰に篤かった聖武天皇の勅命による柿本神社創建本地垂迹は、ここ鴨島の推定遺構にあったと梅原先生は『鴨島刑死説』に自信を深められました。自説の身方は自分一人である覚悟です。併し、歴史家は論文で水難事故はあっても刑死の可能性はないと断言しています。日本海に沈む真赤な太陽を眺めていますと、それは明日の豊漁を祈る漁民の社であったかもしれないし、岩礁は魚の拠る栖で、凪には魚群が寄り、時化には大瀬の危険を知らせるブイを固定する重石であったかもしれません。浜の漁師の命の海へ罪人を遺棄するなど哲学者の古代幻視、早朝浜に出て潮風を胸一杯吸い込んで見ました。磯の若布、サザエ、アワビ、やがてすぐ対馬海流にのって飛魚の群れがやって来ます。沖合の青い海原に生身の人を沈めるなどあり得ないことです。
 昭和四十八年に発表された「水底の歌上下二巻」は痛烈な茂吉の鴨山考批判、著者の該博な知識と豊富な資料、胸のすくような理詰めの論理にいつしか引き込まれてしまいました。遺跡は見つかりませんでしたが著者の情熱と推理は或は真実であったかも知れないのです。そしてその発想が何故石の重りをつけて海の底の死刑なのか、何故石見益田の鴨島なのか、少し考えてみます。  

柿本神社の上にある和風休憩所裏に鴨島遠望台と梅原猛 揮毫の碑がある

益田万葉公園

 当時の朝廷では先進国 唐の制度を学び、中国の古典が精力的にとり入れられた時期でした。古事記序文には中国古代伝説の黄帝の道、周の文王の徳に飛鳥の天武帝が並び称されています。律令国家建設の為に刑罰についても検討されたことでしょう。遠島、流刑、神々の流竄については「水底の歌」本文中に克明に語られています。では人麻呂の死が絞首流刑ではなく何故海の底なのでしょうか。   古代中国では神判の敗訴者は鴟夷子皮(シイシヒ)に包まれて江海に投じられました。鴟夷子皮とは辛夷のような皮袋。トビ、フクロウのような茶色の粗末な衣服、ボロキレの当て布の服のこと、種子や皮のついた藁(ワラ)、茅(カヤ)の蓑筵(ミノムシロ)のことで、明治の頃迄日本でも賭場でイカサマを働いた者、掟破り、忘恩の者、仁義なき者は藁巻きにして石の重りをつけて大川に投げ込まれました。神判の敗訴者を河川に投じ、不吉を流し去ることから刑法の「法」の字が生まれています。殷に大勝した三千年前の周の金文、大孟鼎には、大略「殷の百官は酒によって天命を失墜した。天は周の文王、武王を灋保(ホウホ)し、周は四方を有した。先王の徳を継ぎ、祭祀を怠らず、国を得て傲らず、政事を行わねばならぬ。孟よ、諫言を怖れず輔弼(ホヒツ)せよ。朕が命を灋(ハイ)する勿れ」と孟将軍に命じられたことが刻されています。神判の神羊と不吉を流し去る噐と水流を組み合わせた法の原字が見られます。   中国戦国時代の始め、呉越の戦いがありました。北伐して覇を唱えようとする王に、寧ろ越への警戒を説く伍子胥(ゴシショ)は次第に王との仲がまずくなり、ついに呉王夫差から属(ショッ)クルの剣を届けられました。自害する前に伍子胥が使者に言い残した言葉が痛烈です。   我、大王を輔けて国を守り、若き君をたてて王ならしめた。時に国の半ばを与えんとせしも、我レ、受けざりき。遠からず呉は亡ぶ。我が墓には楸(ヒサギ、梓棺)を植えよ。以て王の棺とすべし。嗚呼、我が目を抉りて呉の東門の上に置け、必ずや越兵の侵入を見届けん と。
伍子胥の憤死の報告を受けた呉王は激怒し、墓を掘り起こして遺骸を馬の皮袋—鴟夷子皮に入れて二度とこの世に戻らぬよう大川へ遺棄させました。
 又、憂国の詩人屈原は佞臣(ネイシン)によって祖国楚は秦に亡ぶ。心あるものは目を覚ませと自身は泪蘿の淵に身を投じました。これは祖国を捨てた忘恩となります。村人が憐れんで粽を湖に投げ込み、代わりの鴟夷子皮としました。生まれかわって祖国を救ってくれとの願いでした。人麻呂は恩を忘れたひとでなし、サルとも呼ばれていました。
では何故西の果てなのでしょうか、中国の西の果ては山また山、虎狼妖怪の住む処です。ただ、龍門を登る者は竜王となります。東の泰山はもとより聖地です。南方の海洋民族では船上で死亡した者は公海に水葬されます。犯罪者は石の重りをつけて投げ込まれたのでしょう、日没 西の暗い海へ。
 柿本人麻呂は持統六年の冬至、女帝に供奉して安騎の野で「東の野に・・・」と有名な魂振りの歌を捧呈しています。軽皇子の魂が朝焼けの陽炎のように東の空に明るむとき、西に傾く大きな満月は中国山脈の山稜に見えなくなる。それは先年亡くなられた父君日並皇子(草壁皇子)の魂が入れ替わり聖天し給う時です。神々の流竄としては少々ロマンチックですが、人麻呂の処刑は人身御供か日本海の西の涯て、石見益田沖に石の重りをつけて沈めることがよいと裁決されたのでしょう。「水底の歌」では警護の兵士に監視され、石見国府に近い韓島(カラシマ)に流罪となっていた人麻呂は、初夏のある日益田沖鴨島に連行され、それは和銅元年の三月十八日であったとか、詩人を乗せた一艘の磯舟が沖へ漕ぎ出し、やがて詩人は悲鳴をあげて海に落ち、舟は何事もなかったかのように帰ってきたということです。天下第一の詩人でも処刑される。そのことによって批判分子 反対派を押さえ込む藤原不比等のマキャベリ的恐怖政治の予告であったと。益田市高津の高台 高津神社境内には柿本人麻呂終焉之地遠望台地梅原猛揮毫の石碑があります。

 然し、そうかもしれないけれど、益田に石川は無いし、鴨島は鴨山ではない。また、軟禁されていた人が韓島から更に西へ妻と引き裂かれた時点で死刑とわかっていたであろうに、「知らにと妹の待ちつつあらむ」とは不自然です。そして マキャベリ的警告、戒めなら尚、議論され噂にならない筈はない、その場所が今日まで不明である筈がない。
 思えばここでも六十余才の老人を何が哀しくて怒り、遠く石見の小島の果てまで引き連れ石の重りをつけて海の底に沈めねばならなかったのか。南紀白浜の三段壁では都合がわるかったのか。石見高津の高台から一〇キロ沖に高嶋が見えます。鴨島より数倍大きく、こんもりとした森が見え、島の高さは五十階建てのビルに相当するか、周囲四キロ南西には少しの耕地があり、昭和の中頃には小中学の分校もあり、百二十五人もの島民が暮らしていました。古くは沖漁の停泊地でした。その高島を目の前にして石の重りをつけて人を沈めたのでしょうか。親ほどの老人を石見の漁師が舟を漕ぎ、刑使が何事もなかったかのように執行したのでしょうか、浜の漁師がそれを黙って見ていたのでしょうか、素朴な疑問が湧いてきます。
 人麻呂は伍子胥のように王宮の東門を睨んで自害した訳ではなく、又、屈原のように離騒の詩を書いた人でもありません。どちらかと云えば政略とは無縁の情熱的でも醇厚素朴な一宮廷歌人でした。反体制派に組みしていて天皇の第一夫人に近づくことはないでしょう、何らかの苦情は漏らしたかもしれません。中央集権化が進み専制が確立する過程で大宮人の女性に対する横暴を暗に歌に詠み込んだことが中傷されたという「人麻呂の暗号」など推理本もあります。伊勢への行幸に供奉することが適わず、その頃から次第に朝廷から遠ざかって行ったと云われています。人麻呂の歌で年代の明らかな最後の歌は文武四年(七〇〇年)高市皇子薨去の殯宮之時作歌で「この長歌は『人麻呂の濁歩の英才を以って不朽を日月に懸けたる歌なり』と水戸光圀に評され、章句よくととのひ、悲歌にして絢麗、万葉集中の雄篇の第1」(保田與重郎)と云われてます、が以後亡くなるまで八年の空白となります。それと前後するのか個人的に「妻死(ミマカ)りし後泣血哀慟して作る歌」とか「吉備津の采女(ウネメ)の死りし時の歌」などがあり、失意のうちに結果的に左遷、追放、石見へは、寧ろ本人の希望ではなかったか。濱田城跡鴨山終焉説に合理性を見るような気がします。次の2首は「水底の歌」本文中で旧来とは異なる新しい解釈で説明されています。

    もののふの 八十氏河(やそうじがわ)の 網代木にいさよふ波の 行く方知らずも  264

    淡海の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば情(こころ)もしのに いにしへ念ほゆ     266

これまでのすべての注釈書は人麻呂が近江国から大和へ上がった時の歌と説明されていますが、「水底の歌」では万葉集の詞書きは後の人の附会で必ずしも信じることは出来ない。この歌は人麻呂が罪人となって引かれてゆく旅の途中で詠まれたものであると、その心情をこまごまと解説されています。つまり、瀬戸内を海路、そして広島から津和野越えで石見へ入ったのではなく、日本海側山陰路を徒で下ったということです。追放か左遷かはわかりませんが本稿もそれに順じます。
くりかえしますが、水底の歌では、人麻呂は仁摩町宅野沖の韓島に禁固され、妻と共に暮らしていた。初夏のある日、警護の武士に連行され、西に八十キロ、益田の鴨島の中の鴨山で一夜を過ごし未明、鴨島沖で水死刑にされたと。しかし、それであるなら途中の浜田湾鴨山沖では何故不都合なのか。浜田には注釈なしの鴨山があり、浜田川は石川と呼ばれていました。何れにしても韓島禁固刑死では「知らにと妹の」とか、死刑が確定したあとで「今日々と我が待つ君は」の返歌が不可解。
 ここからは古代史家 古田武彦著「人麻呂の運命」に力を得て稿を進めます。


柿本人麿生誕地  益田市 戸田小浜

(三) 浜田湾亀山城跡鴨山説 (洪水死説)

 柿本人麻呂は掾(ジョウ)、目(サカン)の間 朝集使第三等官の頃、一時 石見に赴任していたことがあります。斑田収授と砂鉄の朝集が目的でした。柿本家が鋳師の家系であることは奈良大仏の鋳造古文書にその名があることから明らかになっています。白村江の戦いで韓半島からの輸入鉄が不足、建国の為に鉄は必要で、なかでも自国産武器、刀剣の鍛造は急務でした。久佐郷、雲城山、金城を水源とする浜田川は花崗岩の良質な砂鉄の採取地で、それは江戸時代からの資料や明治初期 島村抱月の祖父佐々山一平氏が鉄山(カナヤマ)の支配人として佐々田家に莫大な財を齎したことはよく知られています。浜田川は何万年もの昔から対馬暖流の運ぶ雨で天然の鉄穴(カンナ)流しの川であり、そこは石川と呼ばれていました。石川は神の石、真砂(マサ)と呼ばれる最高品質の砂鉄の採れる川でした。河口の浜田市街へ出る黒川町の黒は真砂と云われる砂鉄の色で真砂は神の恵み、神の宝物、そこは神域であった筈です。浜田湾のハマは払い清め祀るハマ、鴨山には大きな岩が明治初期まで祀られていて神茂(カモ)は神籠(カミコモ)れる山のこと、古くは石神社(イハミヤシロ)がありました。余談ですが、正倉院五十五振りの刀剣のうち何本かに浜田川産の真砂を炒り込んで鍛造された炒鋼鰊鉄(ショウコウレンテツ)の刀剣があるにちがいないと睨んでいます。

●浜田市 亀山(鴨山)浜田城跡 秋葉神社に人麻呂を祀る雁木社が合祀されている

 
 浜田湾の河口が今日のような市街となるのは江戸時代 三重藩の古田重治氏が赴任、鴨山に築城してからのことで鴨より亀が縁起が良いと改められ、石川も市街化するにつれ浜田川となったのでしょう。ところで、石川は時として大洪水を起しました。従って人麻呂赴任当時 浜田湾の河口周辺にどれほど人が住めたかは疑問です。そして北側東の下府に国府が置かれるのは奈良時代に入ってからのことです。それよりも鴨山のすぐ南に三階山(ミハシヤマ)があり、その向こうに周布平野が広がっています。周布川の河口、浜田湾の西側には微高の丘陵があって日本海の北風をさえぎり稲作には最良の地となっています。そこには弥生前期の鰐石(ワニイシ)遺跡があり、既に氏族単位の墓制が確認されています。子持壺や穂摘みの石包丁、祭祀具など高い文化の遺物が発見されていて、周布古墳のある三宅は天皇の屯倉(ミヤケ)を支配した豪族との関係を示唆されています。現地妻 依羅娘子はここに住んで、依羅(ヨサミ)は網元或は歌垣の風習がある氏族の祭主の娘であったのでしょう。その歌からは純朴でも野良着だけの女性とは思えない高い知性が感じられます。柿本人麻呂は浜田市周布に住んで 下府、浜田湾、更に西隣の三保三隅辺りが管轄範囲だったのではないでしょうか。三隅の伝統産業 石州和紙の由来には柿本人麻呂がその製法を伝えたと云われています。その三隅川の上流井野村の大糞山(オオグソヤマ)にも古くから砂鉄を産しました。砂鉄と和紙と三宅、このことから柿本人麻呂の住いは周布郷三宅で現地妻 依羅娘子と暮らしていた。「近々帰る」そのことは内々に伝えられていたことでしょう。ただ、この時は初めて石見路を西へ、妻は知らない、日数もかかりました。
 
柿本人麻呂は追放に近い左遷というべきか、次の歌も火種です。
  ——万葉集歌    斎藤茂吉著  初版 昭和十三年十一月         岩波新書
[巻第三]  大君は  神にしませば  天雲の  雷(イカズチ)のうへに廬(イホリ)せるかも  [巻三・二三五]  
                                柿 本 人 麿                                                                                     
天皇(持統天皇)雷 岳(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿の献った歌である。  一首の意は、天皇は現人神にましますから、今、天に轟く雷の名を持っている山のうえに行宮を御造りになりたもうた、というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随(カムナガラ)にましますというのである。  これは供奉した人麿が、天皇の御成徳を讃仰し奉ったもので、人麿の真率な態度が、おのずからにして強く大きいこの歌詞を成さしめている。雷岳は藤原宮から半里ぐらいの地であるから、今の人の観念からいうと御散歩ぐらいに受け取れるし、雷岳は低い丘陵であるから、この歌をば事々しい誇張だとし、或いは、「歌の興」に過ぎぬと軽く見る傾向もあり、或いは支那文学の影響で腕に任せて作ったのだと評する人もあるのだが、この一首の荘重な歌詞は、そういう手軽な心境では決して成就し得るものでないことを知らねばならない。
[原文]  天皇 御遊雷岳之時、 柿本朝臣人麿作一首 皇者  神二四座者  天雲之  雷之上爾  廬為流鴨 右或本云、 献忍壁皇子也。其歌曰、王 神座者 雲隠 伊加土山 爾 宮敷座   ——
皇統を紡ぐ飛鳥時代の情熱。昭和初期の現人神を奉るアララギ派歌人の矜持が高飛車な筆致にあふれています。併し、詞書きは後者の附会、飛鳥の雷岡は僅か七mの丘陵(標高百十m)で、雨雲の、と言えるような山岳ではなく、古田武彦著、人麿の運命では福岡博多の雷山九五五mのことであると。他にも人麿には筑紫を詠んだ歌が多くあり、斎藤茂吉のような近畿天皇一元史観のものではなく、九州王朝への挽歌であると断言されています。 
 ところが、醸朴な古代九州王朝への憧れ、懐古となれば、藤原不比等の強権的政治を危惧、批判していると詰問されても仕方ない、愛嬌と笑って過ごせない大和王家の痼りです。雷とは誰のことか。いえいえ、天神地祇を祀り、『君が代は千代に八千代に細石の巌となりて苔の生すまで』と謳う筑紫の日向の五穀豊穣を言祝ぐ民の真摯な気持ちに感銘致しましたもの、鳴神の多い年は稲の稔りが良いと聞き及びます、廬らせたまふ 皇祖の御威徳であります — 過ぎし日、唐軍によく抗戦した筑紫の君は、いまは はや、 廬らせたまふ 皇祖の御威徳であります —言い訳が通用したでしょうか。原文の助詞・註からは人麻呂晩年のものと推測されます。
 「もう、 お前には、御用歌人として大和にいてもらわなくてもいい」——(人麿の運命)
とも角、人麻呂は藤原不比等政権を離脱して周布三宅の妻のもとへと旅立った。臣人麻呂、今はそれがたっての希望、切なる願いでした。従僕と共に早春 飛鳥を発ち、建設中の平城新都を横目(シリメ)に宇治川を渡り、瀬田を抜け、山城から丹波への道を徒歩で下って行った筈です。さきの二首はその時詠まれました。白兎の海岸から出雲へ、それまでは天候に恵まれた。大田辺りで雲の流れが厚く速くなり、その頃国府は邇摩辺りまでであったろうと云われています。江津を過ぎた頃雨模様、都野津の浜を急いで波子(ハシ)下向をすぎ、そのまま鴨山の石神社の近くに宿をとった。都を発ってほぼひと月、明日は浜田湾のすぐ向こうに妻の里、懐かしい周布に着ける。人麻呂最後の歌はその夜 詠まれた筈です。

    鴨山の 磐根し枕ける 吾をかも 知らにと妹の 待ちつつあらむ

くり返しますが、「万葉集の詞書きは 後人の附会で必ずしも信じることが出来ない」と、つまり「死に臨む時、自ら傷みて作る歌」とは言えない、久し振りに逢える喜びが込められています。

ところが、夜半の雨、春の嵐でした。石川は一気に増水、・・・・・・・

一夜あけると浜田湾一帯は水浸しとなっていた。知る人のない旅の人麻呂と従僕にとって道は不案内、状況はわからない。かって歩いた記憶のある黒川町の山沿いの道を探して人麻呂は濁流にのまれ海へ流され溺死した。石水の貝に交り海の底深く 岩を枕に。嵐が去って数日、死の報せを受けた依羅娘子には、然し、なすすべがなかった。

今日今日と 吾が待つ君は 石水の 貝に交じりて ありといはずやも 

ただの相いは 相い耐えざらん 石川に  雲たちわたれ 見つつ偲ばむ 

周布古墳の高さは四〇メートルあり、古墳の上から北西に浜田湾を望むと日本海に浮かぶ白い雲が三階山の向こう石川と石神社鴨山のほうへと流れ、「石川に雲立ちわたれ」と詠んだ彼女の気持ちが自然に伝わってきます。つまり、浜田湾には鴨山があり、浜田川は石川と呼ばれていて周布古墳から浜田湾の方角には雲立ちわたれと詠める地形がありました。その海の底に人麻呂は石川の貝に交じって眠っていたのであります。何時の頃からか石神社の礎石に人丸の二文字が伝わり、傍の三階山は石神社の神梯で山頂に祠があります。そこからは日本海が一望で、今は昔、初夏にはトビ魚の産卵の頃、沖の潮目が細く長くピンクに染まりました。長く細く続く潮の帯を天女の羽衣と人は云う。歌聖人麻呂の魂は山上をそぞろ歩き、東に三瓶山を、南西に高津の高台と須佐富士の霞む海をのぞみ、ここに居るよと告げているのです。
万寿三年(一〇二六年)五月二十三日、亥の下刻(二十三時)、海嘯が唸りを上げて迫り、二十三メートルの海水が石見海岸一帯を呑み、押し上げ、流れ去り、人と人家、資材、記録の数々は瞬く間に消えてしまいました。浜田湾、万年ヶ鼻の崎に立って、今日 その急峻な地殻変動を見ると、平成二十三年三月の東北沖大地震のテレビ映像の凄まじさを思い起こします。人麻呂没後、石見地方は水害や旱害が繰り返し、万寿三年の海嘯は壊滅的で、神火(放火)と俘囚の反乱が報告されるばかり、一一一三年、藤原貞道が国司となって下向するまでの四〇〇年間、主たる歴史伝承は空白となってしまいます。更に、関ヶ原後、毛利氏は山口県長門、萩に移封され、周布を治めていた周布氏もそれに従って萩に移ったことから、菩提寺の纏った書類等が持ち出され、長門に関係のない石見の記録は次第に散逸したとみる地元の歴史家の洞察もあります。   それが今回のような、歌人、哲学者、古代史家の目で三様に推理され、各自の結論を得られたのでしょう。貴重な遺産となっています。畢生の思いを込めて揮毫された苔生す石碑、古典は地域を強くする。    最後に、斎藤茂吉氏の説を修正しておきたい歌の場所があります。昭和30年代、まだインテリ復員兵が多かった頃、ある漁師は人麻呂の歌を空んじていました。  長短歌地図参照       
彼は高角山は益田の高津の高台だ。「角の浦廻」(ツヌノウラミ)は都野津の浜ではない。地震で海岸線がつながらなくなったけど吉浦、今浦、ナゴ浦、福浦、角浦、田ノ浦、青浦、荒磯、津田、益田に至る海岸の小さな浦のことだと笑いながら話していました。詩の中に「八十隈毎によろずたび」と数多い曲がり角があることが歌われている。吉浦、今浦、なご浦にかけての七曲り峠はその名残りであろう、海と旅の安全を祈願する小社もある。彼はこの道を「人麻呂古道」と呼んでいました。歌人茂吉が牽強附会した江津の島の星山は論外、都野津の浜は長い砂浜で浦がないのは当たり前のことだ。角の浦廻は人麻呂古道に多くの浦はあっても津和野を超えた瀬戸内海にあるような良い浦や潟がないという意味である、と。
JR山陰本線下り浜田駅を発つとすぐ日本海が車窓に開け、周布、折居をすぎると黒松の株間に白浪が打ち寄せる岩礁が見え隠れします。田ノ浦をすぎた頃鎌手、津田では磯の多い海岸が広がり若布やホンダワラ、青さ等右に左にからまりながら波に洗われる様子を「か寄り かく寄る 玉藻なす」とうたわれた角の浦廻の景色が間近に見られます。


古道(ピンク)❶の場所

古道(ピンク))❷、❸の場所

「折居から古市場」まで伊能忠敬地図より抜粋

角浦から西ヶ松崎

福浦魚港

福浦港からコウチガミの浜

ウナギ浜から松ケ崎、ナゴ浦

吉浦海岸と夕日パーク三隅(国道9号線沿い)

 朝集使であった人麻呂は帰朝する日の早朝 周布を立ち人麻呂古道を西へ、大麻山の見える海岸線を振り返り振り返り、石見益田高津の高台に着き、改めて、いざこれからは山越えである。最後の見納めと、

    

     高角山の 木の間より 妹が門見む なびけこの山

と絶唱したにちがいありません。
 半世紀以上も前、教壇で疑問の表情と暫くくちごもられた藤井先生からのお答えです。

 角乃浦廻の原文は現代日本語表記になっていることから 今日では人麻呂晩年のものと考えられています。一方出雲風土記の人麻呂石見赴任は天武四年二十九歳頃となり年代が合いません。考えられることは個人的な持歌は安騎乃野に供奉した冬猟奉歌等と異なり後日の推稿が可能です。どちらも真実なら、人麻呂は明石や瀬戸内、博多に多くの歌を残していますので羈旅の都度、津和野から依羅娘子のもとに立ち寄ったことになり、余程石見に深い思いがあったことになります。

書友の為に    垂水 烽士    了