石見「子落し」伝説

—わが子を何で捨てるものかー

和泉式部〔絆の道〕

伊能忠敬日本地図(1821年)浜田 172より抜粋

 出雲から萩、津和野へ山陰本線で2時間、中ほどに浜田駅があって、浜田漁港から日本海の海岸線が見えかくれ、「周布」「折居」の駅を過ぎ、小さなトンネルを抜けると「三保三隅」という特急停車にしては屋根もないのどかなホームの駅があります。三隅町の中心は駅のホームから南に高城山 (南北朝時代 三隅兼連公居城跡)という小高い山が見えて、その麓にあり、三隅川が東に大きく蛇行して今度は山陰線に沿って西に流れ日本海に注いでいます。その大きく蛇行した部分の東岸に「子落し」という正式には記載されていない古くからの地名があります。大阪から夜行バスでは中国自動車道、千代田ICから浜田道に入って明け方6時頃浜田駅へ着き、9号線を益田、津和野方面への途中三隅川の大橋を渡る手前で「子落し」を通過します。そこは三保三隅駅と旧三隅町役場の中間に当たり、車内アナウンスもあり、希望すれば下車できます。
 時は今から一千年ほど前、平安中期どことなくはなやかな雰囲気、鄙にはあらぬ1人のうら若い女性が身重の体で早朝 伊甘の宿場を発ちました。今の浜田市 下府(シモコウ)です。途中野道の手頃な石に腰かけて休み、浜田川を渡り、周布川を過ぎ田園を抜け、折居の海岸に出たところで正午をひと時もまわったでしょうか、彼女は砂浜におりて一休みしました。日本海に点々とする磯を眺めて食事をとります。波打ち際で子安貝に似た小さな貝も拾いました。砂のぬくもりと浜風が気持ちよく、ついウトウトとして眠りこんでしまいました。都を出てほぼひと月、因幡から出雲、石見路、彼女が考えていた以上の長旅でした。気がついたのは夕刻、真赤に沈む夕日を眺め、その日は心を決めて砂浜で一夜を明かすことにしました。大麻山にかかった月は丸く中空に、天の川は星雲が白砂を引いて海に流れおちていました。その夜彼女は俄に産気付き女の子を出産します。大麻山から流れる小川で体を洗い、産湯を使いました。夏とはいえ 浜の夜風は肌を冷やします、流れる涙を押さえ 押さえ 赤ん坊を抱いて眠りました。
一日置いて兎に角彼女は次の宿場へと旅立ちました。道は折居の海岸から山手へ入り、椎の古木が茂って薄暗く人家は見えず、ようやく野道に出たところで、先方に今来た道に沿って小川が流れ五間ほどの土橋が架かっていました。その先には三隅川が蛇行して南北に流れています。橋の袂に腰をおろし、産まれたばかりの赤ん坊に乳を含ませ、彼女はひと休みしました。人里に近いことはわかります、しかし暫く待っても人影はありませんでした。1昨日からの疲れで意識は朦朧としていい知れぬ不安と焦燥に駆られました。いっ時ほどして彼女は立ち上がり、土橋を行き来し、人家を探して三隅川の下流の方へ歩きました。わずかの畑はあるものの人影は見当たりません。仕方なく彼女はそのまま旅だって行きました。しかしその手に笠と赤ん坊の姿はありませんでした。
「子落し」は古来、浜田から益田、萩へ向かう山陰道が折居でいったん山側に入り、再び三隅川の下流に沿って日本海側に出る道と、そこで左にとって山を削られた道をまわり、上流に沿って城山下の町中から田畑を抜け益田へ至る旅の人なら 誰でも通る小さな谷間になっています。彼女が左手の山を削られた道をまわって 三隅川を上流にとれば、その頃でも 小野村神本(かもと)という小さな村落はあったでしょう。土橋を渡って細田、三保にかけては見通しがきくものの所々田畑があるだけの湿地帯で田ノ浦海岸に出て、はるか川向こうに見えかくれする古市まで人家は無かったことでしょう。橋の袂に置かれた赤ん坊はそのあとすぐ神本の里人に拾われました。
 昨年9月、両親の法事で帰郷した折、三隅が生んだ日本画家石本正画伯の美術館を訪ねたのですが、あいにく作品の入れ替えの時で仕方なく母方の里である小野村神本の方へ歩きました。法事だけが親の供養でもあるまい、親の生まれ育った村里を散策するのもよいか、など思いながら近年竣工した大橋を渡り「子落し」の昔、土橋を渡りかけたところで古い歌碑があり、その下に由来を記した比較的新しい碑文に 行き当たりました。旅の女性の素性です。
『平安時代の女流歌人 和泉式部は身重の体で九州肥前に住む父 藤原資高を訪ねる為 山陰道を下って来ましたが途中で子供が産まれ、頼る人も無く思い余ってその子を橋の袂へすててゆきました。それから「子落し」の地名となったと 伝えられています。捨てた子供のことが気になり再び立ち寄って探し、育てていた人に事情を話して引き取り 京に帰ることが出来ました。その子が小式部です 。

    摂取(トリタテ)て 捨てぬ盟(チカイ)は ありと聞けど 吾子をみすみの 今日ぞうれしき

 

和泉式部がその時のよろこびを歌で残したものです

 

     大江山 いく野の道は遠けれど まだふみも見ず 天の橋立

 

小式部が十二才の時の歌だと伝えられています』
詞書きの上に等身大の自然石で少し読みにくいけれど行書体で土井晩翠の歌が深彫りしてあります。

 

           子式部

 

  かぐはしき 岩をはと丶めて 子落しや 生い多ちまし丶  歌姫の跡        晩翠

  』

                                                                 

土井晩翠と云えば「荒城の月」の作詞者で生まれは仙台です。このような片田舎までと不思議に思いながら暫く佇んで考えました。碑文の説明は少しおかしいけれど、又、伝説をいちいち詮索するつもりはないけれど土井晩翠の足跡と歌が残されているのなら、少し真面目に考えてみたい。晩翠は「イーリアス」「オデュッセーア」の翻訳者です。ホメロスの真実かもしれない。そう思いながらもう一度碑文を読みかえして帰阪しました。
—この世をば我が世ぞと思う望月のと詠んだ藤原一族の娘が単身?身重の体で旅立ち、“頼る人もなくて思い余ってわが子を捨てた”‥✖︎▲
都から浜田まで百四十里、1日5里を歩くとして28日の行程です。奈良時代以後、律令制が地方に及んで四里ごとに宿場が設けられ、馬五頭を官用に置いたとあります。記録では浜田市下府伊甘郷までで、それからは山里小集落が多くなり、浜田、益田間が大きく開けるのは藤原定通が国司として下向した12世紀からのことでした。もし和泉式部がJR浜田駅近辺で出産したのであれば国府に近く宿場の人は放っておかなかったでありましょうし、くにもとへ何らかの連絡をすることも出来たでしょう。下府浜田から次の宿場までは人通りも少なく 、道も複雑で道中が長かった。それがこの度の伝説を生んだと思われます。 ところで十世紀の終わり、女性が1人で九州佐賀まで旅が安全に出来たのでしょうか。当時式部は20才でした。路銀はどうしたのでしょう、銭貨通用が強制されて石見の田舎でも流通したのでしょうか。式部の場合 式部省エリート官僚の妻であったことは一般庶民とは多少事情が違ったかも知れません。それにしても身重の体で肥前の父 藤原資高(スケタカ)のもとへ なぜ行かねばならなかったのか、彼女の父は大江雅致(マサムネ)です。夫が橘道貞で仮に義父がなぜ藤原姓なのか。和泉式部の父には二説あります、しかし藤原資高は千十三年十五才で元服していますので和泉式部より二十才も歳下になり、系図から藤原懐平(ヤスヒラ)とも云われています。しかし曾祖父が摂政太政大臣で栄華を誇った一族の娘の出産が粗略に扱われる筈がない。和泉式部の伝説と生涯、小式部生誕に至る事情はなんとも不思議なことばかりです。
ここで島根県浜田市観光課へ電話しました。花本さんという親切な方が対応されて、すぐ三隅町人物誌のコピーを送ってくださいました。石碑の写真と「 子落し」の由来 ー 浜田市観光課 三隅支所
一読して これは京都 新京極にある誓願寺の尼さん達により中国地方に広められた話が伝説となり創作されたのではないかと思われます。それはインターネットでも知ることが出来ます。
和泉式部は身重のまま一人歌枕を探す旅に出て西下、出雲から仁摩、江津と下って国分あたりで産気づき、庄屋の軒先を借りようとすると、下僕に「汚らわしい」と門前払いされ、仕方がないので池で産湯をつかい、旅衣を破って産着にした。そこが浜田の「生湯(うぶゆ)」であるとか。また、周布川で赤ん坊が一晩中泣き止まず、「夜泣き橋」と言われるようになったとか。旅の難儀から石田川が三隅川に流れ込む小さな土橋のたもとに生まれたばかりの赤ん坊を捨てて行った。そして小庵(セキ「礻編に石」護庵)で念仏を唱え摂取不捨の仏の加護により子供は救われたという仏教説話になっています。
庄屋をはじめ、道筋の農家漁村の誰もが手を差し伸べなかったので、子供を捨てて行かざるを得なかったことになっていて、後年、そこが「子落し」の地名となったと。小式部内侍生い立ちの地として伝える土井晩翠の石碑があるものの、肝腎の母親の事績は語られず。60年ほど前まではなんとなく昼でも薄暗い三叉路、山間と水の深みが子供心に怖かった。

 

(二)

さて、京都新京極 誓願寺には隣に誠心院があります。和泉式部は初代住職で、式部が晩年浄土宗に帰依していたことから其後誓願寺とは深い関係がありました。誓願寺には芸能の上達を願う人達の香が今でも絶えません。しかし、誓願寺は13世紀の鎌倉時代 円空以後であり、平安中期 石見地方に阿弥陀信仰が伝わったとは考えられません。それはまだ都の貴顕権力者のものでした。
平安末期 安芸宮島に33巻の平家納経がありました。そこから祇園精舎の無常の鐘に摂取不捨の響きを聴き、無上覚が開かれるのは身重の式部が石見路を旅し、再び子供に逢えた遥か200年も後のことと云わねばなりません。物語伝説の終わりのほうで、碑文にもある摂取不捨の仏の力によって赤ん坊は救われたことになっていますが、摂取不捨とは苦界地獄である人間界へは2度と戻ることはない、罪深き人でも極楽浄土の如来の世界へ救われるという五刧思惟の誓願のことです。一声阿弥陀仏と名号すれば誰にも救いの手が差し伸べられる。すべての人が極楽往生出来るという浄土教の根本思想です。それは死後の世界のことで人命救助のことではない。赤ん坊は生き帰らず成仏することをも意味します。摂取不捨の歌は和泉式部が残したものではなくて誓願寺の尼さん達の布教と歌枕探訪の旅で熱い信仰心がなせる創作でしょう。が、看過出来ないのは尼さん達のその情熱です。小式部は立派に成長しています。彼女達がつき動かされた母性の真実とは何でしょう。
物語伝説は誤解あり虚構ありで、それはそれで楽しいことです。おそらく土地には子供が捨て置かれた事実があって、そう言う事実が積み重なって説話が今日に伝えられたのでありましょう。10、11世紀の石見地方は律令制が崩れはじめ、たび重なる水害と凶作により農民は痛めつけられ、ようやく立ち直りつつあった頃でした。その中に伝説の子が居なかったとは言えません。
和泉式部の前半生には謎の部分が多く空白の何年かがあります。折角今日まで平安中期の大歌人 和泉式部の伝説を語り続けて来たのですから、かけがえのない遺産として地元ではおおいに夢をふくらませ大切にされたらよいと思います。ただ、読み過ごすことができないのはこの人物誌によりますと、仏の加護を説く余り、地元の里人の冷たさと旅の難儀が強調され、親が安易に子供を捨てたことになっていることです。石に刻まれているので敢えて書きましょう。摂取不捨を説明するために「捨てて行った」「捨てた子供」と捨てたという表現が敢えて使われています。しかし、已むなく手放したわが子を「捨てた」と云われ、恨みのない母親は一人もいません。それでは「今日ぞうれしき」が誰のための歌碑であるのかわからなくなります。石見人の良さは優しさと悪意のないしなやかさです。土井晩翠の「かぐわしき岩を」の枕言葉には少し恐ろしい橋の下にも、詩人の研ぎ澄まされた暖かい心情が流れています。 
歌枕を探す旅が出産の為の里帰りであるなら尚何故生まれたばかりの嬰児を手放すのか。何故わが子を捨てるのでしょうか。苦難の旅であったとしても安易に子供を捨てて行くような女性なら、式部の歌人としての功績も疑問です。和泉式部の名誉の為にも、又、遺棄された子供を育てていながら、「邪険にされた」「捨てて行かざるを得なかった」と中傷されるのは地元の里人にとっても残念。捨てたのなら何故数年も経って生死もわからない子供を探して再びその地を尋ねたのか。ここは「自分の命にかえて」と読み替えて考えるべきではないでしょうか。

              

(三)

「歌はうまいがけしからぬ女」、歌も正統とは言えない。これは、平安中期、和泉式部と同世代で少し年上の紫式部の評です。雅とおくゆかしさが尊ばれた時代、彼女ばかりでなく多くの歌人が永い間、儒教的思想からも和泉式部のあからさまな歌風を嫌って無視、或は抹殺しようとしてきました。情熱的で不節操な私生活からその叙情歌、恋愛歌に批判があってもやむを得ないことですが、しかし、和泉式部の歌を後醍醐天皇が宸翰本(天皇直筆の本)として愛し、お姫さまの繰り言でない胆力を与謝野鉄幹、晶子夫妻は激賞しています。文芸評論家保田興重郎氏はその著作「和泉式部私抄」でこの注釈書を書く動機として「ドイツの詩人ハイネ、イギリス浪漫派の詩人にも比肩する、寧ろ、彼女に比しては明星に対する淡い群星と云うべきである」と評しています。その保田興重郎文庫をもとに5首を引いておきましょう。熱い心と余情が魅力です。このような文を届けられた貴公子の心が傾かぬ筈がありません。

       君恋ふる 心は千々に 砕くれど 一つも失せぬ ものにぞ有りける

 

       ものおもえば 澤の蛍も 吾が身より あくがれ出る 玉かとぞみる

 

       瑠璃の地と 人も見つべし 我が床は 涙の玉と しきに敷ければ

 

      人は行き 霧は真垣に 立ち止まり さも中空に 眺めつるかな

 

      黒髪の 乱れも知らず 打ち伏せば まず掻きやりし 人ぞ恋しき

 

五首目の歌は下葉紅葉、晩年初恋の人に寄せたものです。彼女の歌は数に於いても王朝歌人の郡を抜いて勅撰集に246首採録、和泉式部正・続集1450首、和泉式部日記には親王との贈答歌が残されています。
和泉式部は生没年不詳、佐賀県杵島 泉福寺の本堂裏で泣いていた嬰児を大黒屋夫妻が引き取り、嬉野で九歳まで育てたことになっています。そのことを記念して佐賀県嬉野には立派な和泉式部公園があります。器量良しで利発な子供であったので京都へ連れられ、式部省中級官使 大江雅致(まさむね)の養女となり、式部省女官として成長、20歳の頃 橘道貞と結婚、夫が和泉の守に任ぜられたことから和泉式部と呼ばれるようになりました。この頃1女を儲け、後の小式部内侍ですが、この5年間が石見伝説となっています。いや、九州から東北まで和泉式部伝説が残されています。世間一般には所在不明、帰京後は夫と別居状態、宮中の貴公子に放っておかれる筈もなく、夫に対する意地もあった。親王兄弟との派手な恋愛関係から離縁されます。世間の批判を最も浴びた時期でした。和泉式部日記の贈答歌はこの頃のものです。しかし、頼りとした2人の親王も相継いで亡くなります。その後、左大臣藤原道長の知遇を得て「うかれ女(め)」と揶揄されながらも一条天皇 中宮彰子に仕えます。そして道長の家司・武人で歌の心得もあった藤原保昌に嫁し、京都丹後守の妻として夫の任地へ向いました。その時の小式部内侍の機智に富んだ歌は百人一首に採録され、つとに有名です。

 

      大江山 生野のみちの遠ければ まだ文も見ず 天橋立            (10番)

 万寿三年、和泉式部45歳の頃 小式部内侍と、その子で、道長にとっては孫にあたる静円をも失います。その時の母親としての和泉式部の哀切と落胆、吾が身の出自を顧みれば御堂関白の孫とその母であるわが子小式部内侍を失うは惜しみて余りあります。

 

      留めおきて 誰を哀れと思ふらん 子は増りけり 子は増るらん

 

      身を分けて 涙の川の流るれば こなたかなたの 岸とこそなれ

 前述の和泉式部私抄の末尾解説、「川の音」に著者の「涙河の辯」があり、「式部の体には実際に涙の川があり、歌からは その川音が聞こえてくる。深い思いの淵となっている」と解説しています。最晩年は道長のはからいで京都御所の東、荒神口辺り誠心院に身を寄せ、

 

      あらざらむ この世のほかの思い出に いまひとたびの 逢うこともがな   (56番)

と最も人口に膾炙されている歌をよみ、58歳になるか、1035年頃没しています。
人には後ろ指をさされながらも後ろ盾の危うい女の身で幼い子供を抱え貴顕の垣根を低くして生きるには恋と歌しかなかった。それが彼女の生きる信念でした。けしからぬ女、放埒な女性と非難されても女であることの強みで、捨身ともとれる生き方、不屈の信念と歌の胆力、彼女の涙河の源泉は何処にあったのでしょう。

 

(四)

和泉式部「子落し伝説」石碑 子式部内侍歌碑 土井晩翠歌碑


石田川から「佐々木桜」「子落し橋」 和泉式部「子落し伝説」石碑

和泉式部の名が一般的に知られるようになったのは没後50年、和泉式部日記が公開されてからのことですから石見伝説の当時、それこそ無名の素通りの旅の女性が子供を産み、土橋の袂に子供を置き、行き去ったことを、それが誰であるか、石見の里人には知る由も無かったことです。

後年この地が「子落し」と呼ばれるようになったのは先にもふれましたが和泉式部の最晩年万寿3年(1026年)石見地方を襲った大地震による地殻の変動で農漁村が疲弊、育てられない子供も多くあったことに由来すると推測されます。比較的被害が少なかったか、暮し向きにゆとりのあった奥三隅の入り口に、やむなく、生まれた子供を捨て置くことがあったのでしょう。誰いうことなく そこが「子落し」と呼ばれるようになり、その後、京都新京極の誓願寺の尼さん達が布教と歌枕を探す旅に出て、誓願寺に本尊と共に祀られていた和泉式部の最晩年に漏らした石見の旅の苦難を伝え聞き、当時流行したカッタイ病に苦しみながら旅を続けていた我が身に替えて語り伝えたことが「子落し」の地名と重なって「和泉式部子落し伝説」となったというのが真相のようです。これが和泉式部没後二百年のことです。しかし、地震後の湯だまり、生湯(なまゆ)が産湯(うぶゆ)は話が出来すぎ、夜泣き橋は愛嬌でも子供が遺棄されたこと、和泉式部の子は拾われて後の小式部内侍であることはほぼ間違いない。何人もの女性の間で語り継がれた、尼さん達の歌枕と伝説の地探訪の旅はホメロスの真実でしょう。不思議なのは何故、遺棄されたのか、又旅の道筋が柿本人麻呂時代からも続く昔からの浜道と違う山手に入った石田川の土橋がその地であるのは何故。これは、その時代に生き、地元の人でなければわからないことです。古老の聞き伝えを頼りに稿を進めます。

千年前の田舎では古地図と言えるようなものも無いので地形の正確な調査が必要ですが、万寿3年の大地震以前、海岸線が褶曲隆起する以前の複雑でなかった頃、今の浜田市生湯海水浴場から折居、田ノ浦の海岸は益田迄海沿いの道がずっと続いていた筈です。震災で吉浦、今浦、福浦、角浦の道は一部無くなりますが、平安中期まで先を急ぐ旅人は海浜に沿って西に下ってゆけばよかった。(地図参照)それなのに和泉式部は折居の浜から突如林道に入っています。これは何故でしょう。当時は大麻山信仰と採石の道で、嬰児を抱いた和泉式部は夏の日差しと浜風を避けようと木陰を見つけ、ひと時をすごしたのでしょう。そしてそのまま木陰の続く道を西へ、石田川へと進んだとしか思えません。しかし、途中 中道峠は椎の大木が繁る昼でも薄暗い山道でした。人里へ出た時、精魂尽き、意を決して子供を手放した。その母性と決断、それが生死を分けることになったのです。


和泉式部の述懐、叫びが聞こえてくるようです。
「邪険にされた、救いの手が無かったと、ああ、それは違う。旅の苦難は身から出た錆、人目を避けたのは私の方だ。子供を手放したことは捨てたと云われ、いかに責められても、それは仕方がない。あの日、道貞と言逆(イサカ)いになった。浮気を詰(ナジ)ったが逆に出自を貶(オトシ)められ、お腹の子の父を疑われた。許せなかった、悲しかった。思い余って家を出た。若いと言えば若かった。湖山の親元をたずねたが、そこで叱責され、帰るつもりが悔し涙を流したあの峠、気が付けば白兎の海岸を西に歩き、旅をつづけていた。 しかし身重の身体で嬉野への道はあまりにも遠かった。旅に出て幾日か、その日砂浜に腰を下ろして凪いだ海を眺め乍ら食事をとった。浜の砂は暖かかった。旅の疲れからそのままウトウト眠ってしまった。どれほど時間が経ったであろうか、気がついた時は真っ赤な夕陽が沈みかけていた。刻々と沈む太陽を見つめ、次の宿場まではどれほどか。旅の疲れと心地よさに心を決めて、その日はそのまま浜で眠った。夜半 月が青く白く輝いていた。小さな磯の暗い海の底には海蛍が無数に光を放っていた。ふと、このまま死ねたらどんなに楽だろうと思った。明け方急に産気付いた。それからは夢中であった。二日、三日、出産のつかれ、明日への不安、生きる希望を失っていたあの時,自分はこのまま死のうと思った。嬰児を抱えて二人では生きられない。しかし、今となってこの子だけは助かって欲しい。必死で山道を歩き峠を越え人里に近い土橋のたもとに笠に抱かせて子供を置いた。岩かげに人の気配がした。気は朦朧と祈りながらその場を去った。再び海辺に出た。長い砂浜、自分はそこで気を失った。

四年が過ぎた。記憶をたよりにもと来た道を探し尋ねた。自分が倒れた田ノ浦の海岸を知り、再び子供に逢えた喜びがどれ程であったか。京へ上る勇気が湧いた。子供は京の都で再び生きる励みであった。今、彼の地に大地震があり、土地の人々が苦しむ伝聞に胸の痛む思いがする。あの時の村の人には感謝してもしきれない。その家の裏山には大きな山桃の木があった。庭には百日紅が咲いていた」
和泉式部は帰京してこの五年間の生死の淵をさまよった 誰にも言えない悔悟の思いをバネに子供を立派に育て、自らも平安中期を代表する歌人として生涯を貫いたということができます。

万寿三年(1026年)は小式部内侍逝去の年です。和泉式部は小式部の死後漸(ヨウヤ)く胸に秘めた過去を誠心院の身近な人達に話しはじめたのでしょう。誓願寺に旅の苦難が語り伝えられたことになります。
子供は地元の人に乳をもらい、式部にも命があって再び母子が逢えたことは奇跡中の奇跡。三隅川は鮎の産地、「うるか」は母乳を促す。そこは「命拾い橋」「子育て村」、小野村神本(かもと)の人の理解を得て式部母子が手を取り合って大麻山から三階山(みはしやま)のふもとの里道を喜び勇んで京へ向う姿が目に浮かぶ。母子の往復した「絆の道」は後に彼女に多くの秀歌を生む原動力ともなった。今は国道となって三隅神社参道メインロードに直結、「子落し」とは大きな宝物が産みおとされたものだ。
「気を失ったわたしは浜の漁師の声に気付き、旅の女性に励まされて、それから必死で山(津和野)を越えた。再び海辺に出て、また一人旅、しかし、気が付いてみると進めど帰れず、引くに戻れず、とどまるよりほかなかった。

それからのことは村人の目にどのように写ったか、小野田の人に聞いて欲しい。(山口県小野田市には郷士と和泉式部の伝説と墓があります)。四年が過ぎ、お世話になった人を見送って、せめて子供の生死、消息だけでも確かめねばなるまいと、矢も盾もたまらずふたたびもと来た道へ山越えの旅に出た。
田ノ浦海岸の長い砂浜、心地よい潮風、なかばあきらめていたが、吹き寄せられた貝を拾い、青い海原、白浪は立ち寄せ、立ち寄せ、その時ふっと わが子の姿を見た、この村のどこかに必ず生きていてくれると」  
              1                 平成26年11月23日
参考文献
保田興重郎文庫6「和泉式部私抄」          新学社
久保木寿子著「実存を見つめる 和泉式部」      神典社

        

あとがき

「子落し橋」の由来、和泉式部伝説の碑文で和泉式部が残したという 

     摂取(トリタテ)て 捨てぬ盟(チカイ)は ありと聞けど 吾子をみすみの 今日ぞうれしき

 

この歌を聞いて和泉式部の詠みであるという歌人はいないでしょう。歌風の違い、なにより歌人は 仏の教義を詠まぬものです。
それでは若い頃の和泉式部に仏の救いを求める歌がなかったかと言えば、帰京後の間もない頃 雅致女(マサムネオンナ)式部として出された歌が残されています。

 

   暗きより くらき道にぞ 入りぬべき はるかに照らせ 山の端の月

 

この歌は 当時 勅撰集の選者で90才を過ぎていた性空上人の目に止まり、以後式部は歌人としても自覚するようになります。「暗きより冥(くら)きに入り」は釈尊入滅後1500年、末法の世の終わり、仏の救いの手が人の世に及ばなくなるまであとわずかしかない、大法輪を供養せよと説いた妙法蓮華経化城諭品の一行です 
いかにも、自らが生死の淵をさ迷い、恩ある人の死に立ち会って、今は生きる望みを取り戻してはいるが、心から頼るべき人のいない一児の母、幼い子供を養育しながら見えない力を頼みとする若い母親の心情が詠まれています。このことからも和泉式部は20歳過ぎの数年間、悶々として安芸の宮島に近い小野田で何となく法華経に親しんだのではないかと推測されます。石見伝説の真実を補足するものです。
ここでもうひとつ和泉式部が田ノ浦の海岸を歩いた筈とこだわった気になる一首があります。

 

     田子の浦に 寄せては寄する 浪のごと 立つやと人を 見る由もがな

 

一般には想う人を待つ女心の切なさを詠んだものですが、そこには心の奥に秘めた悔悟の想いと打ち寄せる青い海原の原風景があった筈です。式部は田子の浦を旅したことはありませんが、田ノ浦の海岸は三度歩いた筈です。保田興重郎氏は「何ともない作のようであるが、投げやりのようなことばが無造作の巧というべく、歌集中の佳作である」と評しています。式部の心にひそむ涙の浦であったと思います。 最後に碑文にある小式部内侍の大江山の歌は助詞の間違い、「遠けれど」ではなく「遠ければ」です。 そして藤原保昌は1020年に丹後に赴任していますから小式部内侍は18~20才であった筈です。 拙稿は、唯一 土井晩翠の歌碑を信じ、ふる里に想いを馳せて書いたものです。多少の冒険もありました。  
                             平成27年1月12日

書友の為に    垂水 烽士

                              

田ノ浦海水浴場(浜田市観光協会)