石見神楽 八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)

●2023年2月「ヤマタノオロチと天叢雲劔」は「八俣遠呂智(ヤマタノオロチ)」と改め、内容を一新致しました●

(副  題)

1、神話のオロチ(記紀原文、八頭八尾一胴、目は赤加賀智の如)  
2、石見神楽(Hamada Where Kagura is Life) 
3、オロチ族(黒龍江 サカチアリヤン) 
4、玉 竜 (六千年前の竜の形)   
5、青銅器と竜(王冠を戴いた竜)
6、甲骨文 竜(竜の古代文字)
7、巫覡(フゲキ)(箕子朝鮮と邪馬台国卑弥呼)
8、劍と剱と刀(箕子朝鮮と邪馬台国卑弥呼)
9、玉 器 (項羽と劉邦)   
10、オロチと勾玉と竜(豆満江を渡ったオロチ族、觿(ケイ)と勾玉、銅鏡竜図)
11、竜のヒューマニティー 
12、古代日本刀 (石見浜田、石川の真砂)    
13、八雲立つ 石見八重垣 (日本最古の和歌と柿本人麻呂の歌)
14、柿本人麻呂と原・古事記 
15、参考図書・講演   
16、オロチ神話の矛盾(酒と女を喰らう悪竜の神剣) 

1、神話のオロチ

日本の古典、古事記
須佐之男命が退治したオロチは八頭八尾一胴の大蛇、古事記のオロチ退治は奇想天外、最高のスペクタクルドラマである。ところで、これは建国の歴史である。中国山脈に八頭八尾一胴の蛇など居る筈がない。その八俣遠呂智の発想とは何か、その長きこと谿八谷峡(タニヤタニ)に渡り、目は赤加賀智(アカカガチ)ホオズキの如く、背中には蘿(苔)、桧杉が生え、酒が好きで胸は赤く爛れているとは。中国山脈を縦横に流れる江ノ川の中流に邑智郡があり、オオチをオロチの語源とも言い、火を噴く三瓶山を恐ろしい山、オロチとも云う。語韻は似ていてもネームはナメエ、名前の語源ではない。又、オロチには架空の竜辰 ロン、リョウ等の言葉も訛りもない、オロチが竜で大蛇という日本語は何処にもない。北方の異民族オロチョン、オロチ族のこととも言われるが、歴史の辻褄を合わせられるのか、虎や狼では建国の歴史にならないのか。そしてオロチの中尾から長剣が出たとは、どういうことなのか。腹でもなければ竜の角の変形でもない、何故中尾なのか。中尾とは何処か、関連する事象は何か。遠呂智の居る処には常に雨雲がかかっていたことから天叢雲劔の出現がある。その場所は特定出来る、又、古事記では 都牟刈之大刀、後の草薙劔が、単なる架空の神話の産物でないことは熱田神宮の社家四、五人の実見記録がある。
「長さ二尺七、八寸、菖蒲の葉形、中ほどに厚みがあり、全体に白い色であった」玉籤集裏書より。
 
 二尺七、八寸約84センチ、銅剣にしては長い。白銀色でよく切れることは草薙劔で実証されている。日本で最初に鉄剣が鍛造されるのは、更に2、3世紀も後なので銅剣ではないかと疑問視されるが、鉄剣であろう。銅剣なら、当時北九州に山ほどあり、時代は少し後になるが、出雲荒神谷には358本もの銅剣が埋納されていた。須佐之男にとって珍しくも何ともない、彼は尖光形銅剣十拳劔を持って戦っていたという。敢て天照に献上するまでもない、神宝とはなり得なかった。では、鉄剣なら何処で鍛造されたのだろうか。鉄にはヒ素含有量の指紋があり、現存すれば大凡の産地は判明するが、惜しむらくは嘉永四年(1185年)源平の戦いで安徳天皇と共に壇ノ浦の海の底深く沈んだことである。そこで、当時鉄剣を鍛造出来る古代鉄炉は何処にあったか、又、その技術は。まず、2、3世紀の出雲鳥髪山近辺に古代鉄炉は発見されない。日本で最古の鉄炉、野爐(のだたら)の遺跡は壱岐対馬と中国山脈の西、広島側にある。又、宝剣と共に三種の神器に勾玉がある。勾玉とは何か、吉祥、守護、竜との関係はあるのか。勾玉は天岩戸神話で天鈿女命(アメノウズメノミコト)の榊飾りの八尺の勾玉と「八尺瓊(ヤサカニ)の曲玉は突如として天照皇神の装身具として登場する」。

 出雲神話は恋物語で優しく楽しいが、出雲風土記には、遠呂智退治神話は伝えていない。よく言われる斐伊川は暴れ川で下流は幾筋にも分かれ、腹のただれた大蛇が民家を襲い、八俣遠呂智神話の引き合いに出されるが、それは出雲王権が成立して、更に江戸時代以降大規模な鉄山流しの後付けである。八頭はあっても八尾が説明出来ない。遠呂智退治の物語りは出雲本家だけでなく、考古学的には、もう少し中国山脈の西、山口県萩、須佐辺りまで下って、更に西の空を眺めて考えざるを得ないのではないだろうか。韓半島南端には蔚山(ウルサン)、旧意呂山(オロヤマ)がある。ここは、石見神楽の地元押し、海外まで出張して公演される、その心意気に感じ、遠呂智とは何か、深く掘り下げて考えてみたいと思う。オロチと大蛇、竜であるのには六千年の歴史がある。 

2、石見神楽

 石見には浜田を中心に150舍以上の神楽の団体があり、令和元年大阪難波、桜川に郷土出身有志の手で石見館が開館した。こじんまりした平舞台で座布団でも観劇出来、映像を使ってストーリーをわかり易く構成してあった。浪速っ子を募集され、俄稽古とは思えない演技であった。ところが、石見館は一年余りで休館となった。誠に残念である。一に切符の販売、宣伝にも問題はあったが、郷土外で公演が続けられるなら、8拍子の旋律に詩があり、歌が必要であったのではないかと思う。大正初期、島村抱月の芸術座はカチューシャの歌、ゴンドラの歌で大ヒットした。オロチョンの火祭りのような、また、村祭りの歌もいい。東京2020オリンピック開会セレモニーでは50頭のオロチが舞う筈であった。オロチが吐く息と炎、救出された奇稻田姫によって聖火が点火されたかもしれない。再会が待たれる。
  石見神楽については浜田商工会議所発行の美しい小冊子がある。B5版、155ページ、定価1800円。  
明治十年頃から大正、昭和の初めにかけて国学者の藤井宗男氏、神職の牛尾弘篤氏らが詞章などを改正、6調子から8調子へ、更に木彫面から紙貼り子面へ、オロチは藁(ワラ)蛇から石州和紙胴へ改良、豪華な刺繍の衣装へと舞台を完成。田中清美氏などの指導で各地に普及。戦後氏子神楽の乱れを篠原寛氏等が原初の姿に共同研究検討され「校訂石見神楽台本」が刊行された。そして、昭和四十年園山弘昭氏など甍会による尽力で第1回神楽大会が浜田市民会館で開催されるに至り、今日の立派な伝統芸能として保存されている。(石見神楽歴史解説 川本裕司)
 石見神楽の蛇舞は村祭りの深夜から未明にかけて演じられる。今か今かと大蛇が現れる瞬間は子供心に楽しくも怖い、オドロオドロしたなかに知恵と勇気、愛の舞台でもある。その神楽の国の歴史に何故 大蛇(悪竜)なのか。日本は大陸からの多民族国家である、中国古代史からオロチと玉と劔を追ってみた。少々長文のレポートになったが、写真資料を眺めながら拾い読みし、四千年の古代に思いを馳せて欲しい。。夢と希望と志しに竜の息吹があった。

3、オロチ族

 ツングース諸語系エヴァンキ族はシベリヤの代表的民族で、馬とトナカイを飼育、狩猟に従事、漁猟、海獣狩猟も副次的に行う。現在は中国東北部、黒龍江沿い、ロシア領アムール河畔に居住している。北方ツングースのうちオロチョン族は中華人民共和国内フルボルイ市オロチョン自治区に約9千人が暮らす。オロチョンには「トナカイを有する者」の意がある。又、オロチ人はハバロフスク地方、沿海州、サハリンに約600人が暮らす。狩猟が主で弓矢が得意、オロには「山岳で暮らす者」の意がある。
 ハバロフスクの北、サカチアリヤン(地図)にオロチ人と隣接して暮らすナナイ族の住む河畔の岩壁には蛇の胴体、マムシの菱形図型、新石器時代の岩壁画が報告されている。「ムドウル」と呼ばれ、その精はオーロラのように天に舞う蛇、岩壁の虺竜(キリュウ)は生命力が強く、彼等北方ツングース族の守護、畏敬の対象である。但し、ツングース族の本来の信仰は水鳥である。行く先々に生息する白鳥、鴨、雁などであるが、それは天空を自由に渡り、水に潜る、天と地を貫く水鳥の精に因る。彼等は捕獲して煮た水鳥や獣魚の凝固脂を一部、まず生命力の強い虺竜・蛇の形に象って切り取り、白樺の容器に入れてお供えとする。オロチョン族、オロチ人の生活用具、宗廟には鳥文、一頭二胴の蛇、菱形図柄、撚縄文、渦巻文、萬字文様が描かれている。





資料11 「シベリアの古代文化」 天の蛇(ムドウル)菱柄図の岩壁画 蛇、コウモリ、渦巻文、縄文、鳥獣岩絵 渦巻文 縄文古代ツングース語族 黒水靺鞨族の 岩絵  後期旧石器時代  初期鉄器時代  黒竜江 サカチアリヤン

  


 シャーマンの念力、魂の表現であろう。エヴァンキは天幕式住居者のことで、ツングースは語源不明、ツングースのなかでも猪豚の飼育に長けていた剽悍な靺鞨族(マッカツゾク)をトングースと言い、その説もある。猪は彼等の主要な食料であり、命がけの狩猟の対象であった。 
 ここでは新石器、初期鉄器時代のムドウル、虺竜を特記しておきたい。虺とは勇猛なマムシ(蝮)のことで、その精は竜の幼生 ミズチ、蛟虯虬螭(コウ、キュウ、キュウ、チ)である。四脚を持つものあり、毒気を吐く、以下虺竜とする。古代碧玉のものは玉竜と表記されている。


4、玉 竜

紅山文化(地図)ー


 北京の北東、紅山文化はBC4900年〜BC2900年頃に栄えた、長江、黄河文明に並ぶ中国で最も古い文化で、昭和初期日本の考古学者鳥井龍蔵が発見、浜田青陵、水野精一氏らが発掘した。永い間未発掘の忘れられていた古代文化である。遼河流域の紅山後遺跡、牛河梁遺跡から黄鉱石か、鈴玉のような玉猪竜・ズーロンの置物や、見事なブルー、緑松石の豚竜腕環形玉器が発見されている。
資料2玉猪竜・ズーロン置物 豚竜緑松石腕環 BC3000年年頃 遼寧省江山文化遺跡 駱駝竜玉環 
BC3500年年 安微省含山県冷家灘十六号墳  
  
 それらは5千年も前のものとは思えない精巧端正なデザインである。豚竜玉環は遼寧の石ではない。緑松石は遥か遠く砂漠地帯敦煌、ハミ、ロプノールの黑山嶺緑松石採掘遺跡から古代トルコ石採掘の報告がある。採銅、工具作りの技術は既にあった。然し、誰が何の為に豚や猪を蛇身竜形に見立てたのか、その説明はない。同時代の安微省文物考古研究所の玉竜は駱駝の頭部を模している。牙、背ビレまで刻んでいる。資料2−2
  初期玉竜の解説では
 更に1986年(昭和六一年)遺跡女神廟からヒスイの目をした陶製人頭像が発見されている。典型的なモンゴロイド、美貌の女性は猪竜豚竜の玉器を身に付け、豊作と狩猟の成功を祈ったにちがいない。
資料2

夏王朝ー
― 紅山文化は急激な寒冷化にともない衰退するが、碧玉硬玉の文化は互いを刺激しあった河南省偃師、二里頭、夏王朝に受け継がれている。BC2070年〜BC1600年頃まで栄えた。近年、都城と推測される遺跡、宮殿中庭から被葬者の上に副葬されていた目映いばかりの碧玉を張り詰めた竜杖が発見された。長さ70センチのトルコ石2600個余り、竜象嵌の杖である。夏王朝は寒冷化に備え、米麦だけでなく、粟、高梁、稗、大豆等雑穀とユリ根等の栽培にも力を注ぎ生き残ることが出来たという。王朝として400年余りも栄える。夏の伝説の司空官、建設長官の禹は水の流れを塞がず堰止めず、䟽導(ソドウ)して大河の治水に務めた。杖を立て縄を張って測量し、生涯を国土保全の為に奔走、席の暖まる間もなかったという。竜杖はその功績をたたえられたものであろう。伝説として聞いてはいたが、現実に竜杖が発見され、臣下、庶民の想いを知ると胸が熱くなる。禹とはトカゲのことで小さいが、虺蜥(キセキ)とも言い、勇敢なみずち竜のことである。 
 又、同時に発掘された「狐の飾り板」は黄を帯びたトルコ石の神秘的な目をしている。手札ほどの大きさで禹の愛用したものであろうか、狐は野鼠から畑の作物を守る、捕獲を戒めたものであろう。竜杖といい、狐の飾り板はトルコ石の象嵌で紅山文化の流れを汲み、夏の技術を更に進歩させている。
資料3  禹の竜杖 狐の飾板 緑松石 トルコ石象嵌 BC1700年 偃師 二里頭  夏王朝の遺跡  

 殷 ― 夏王朝の次は殷、本来の名は商、湯王は夏の桀王の軍を明条に破った。それは宰相伊尹(イイン)の弗慮胡得(おもんばからずんばなんぞえん)と、周到な計画を以って決起を促した粘り強い意思の強さと、象嵌技術をいち早く取り入れ、銅製の騎車、武器に応用した最先端をゆく軍備による。
 伊尹の出生は奴隷であったといわれる。古代、戦いに負けた部族の成人は殺され、女、子供は奴隷となった。黄河支流の伊水の畔、大きな桑の幹に嬰児が置かれていた。有莘氏(ユウシンシ)に拾われ、料理人として育てられた。養父の死で商の都、亳(ハク)へ行き、湯王の輿入れにチャンスを得て料理番として仕えた。伊尹の特技は水鳥の炙り焼きである。柔らかく香ばしく湯王に大いに喜ばれた。 ― 知人に滋賀県堅田、近江の人が居て、子供の頃、父親が鴨を捌いて、栗、モチ米を腹に詰め、糸で縛り、3時間煮る。塩胡椒、白ネギとで野焼きして食べさせてくれた、その想い出が忘れられないという。大戦後のことである。韓国料理参鶏湯(サムゲタン)は朝鮮人参、ナツ目、松の実、モチ米を詰める、こちらが本場で、尊父は復員の喜びを噛み締められたのであろう。伊尹の炙天鵝(ジイテンガー)は今日北京料理、烤鴨(カオヤー)の元祖となっている。有莘氏の辛は串刺し、炙天鵝の鵝は北からの渡り鳥、白鳥のことで、そこには北方遊牧民ツングースの流れ、伝統がある。
 商は19代盤庚(バンコウ)の時、それまで洪水に悩まされ続けたことから黄河を北に渡って安陽に都した。異民族を懐柔、各地で征戦服属させ強大となった。王国は殷賑を極め、他部族は羨望を込めて殷と呼ぶ。商、殷は合わせて600年の永きに栄えた。殷墟からは多くの玉竜、龍形水晶板玉玦(ギョクケツ)とか、軟玉も含め更に発達した竜形魔除けの玉器が発掘され、故宮美術院に収蔵されている。リアルなものもあれば、デフォルメされ、形式化されたものまで様々である。

資料4古代各種玉竜  BC1000年間 吉祥魔除、  故宮博物館
  円形、C型リングの玦は磨かれて原石のままでも尊ばれた。 玦は富貴吉祥の耳飾りとなり、帯佩して時に決(玦)断を迫った。前漢、後漢のあいだの新を決(玦)絶と言い、離縁、決別、永遠の別れの意志を使いの包みの布に結んで決(玦)絶を伝えた。また、戦場では筒玦を右手親指に挿して弦を引き弩を射た。完全円型なものを完璧といい、竜紋の白壁を等分に裁断して割符とした貴重な持物もある。


5、青銅器 と 竜

殷王朝で特筆されるのは青銅の酒器、盛器、鼎(カナエ)と亀甲卜占による甲骨文字である。王侯氏族の軍事訓練の様子も刻されている。戦車による猪狩であった。戦果は大きな鼎で煮て神に供えられる。鼎は王国の権威を象徴した。その鼎を守る側面の浮き彫りこそ単頭双身菱胴の虺竜文である。


資料5 大方鼎  単頭双身虺竜文 殷、周 夔竜方卣   四面の夔  手提部宝冠虺竜 BC1300年  殷墟 白鶴美術館蔵 

 この頃、殷王は竜方ツングースを伐とうとして止めている。山岳竜ムドウルは、 殷王朝にあって雄羊の美徳を称え、吉祥を祈る霊獣となって青銅器の中に習合した。資料5−2
第35代帝辛紂王は寵姫に溺れ、祭祀を怠り、酒池肉林淫楽に耽り、人道を無視、暴虐残忍な性格であったと伝えられている。人心を失い、他部族の反感を買って、牧野の戦いで周の武王に破れる。BC1046年、離宮の鹿台に火を放って殷は滅んだ。それから3千年、昭和三年(1928年)、殷墟の発掘が始まり、以降青銅器の数々と数万点に及ぶ卜骨の解読によって、それまで伝説の域を出なかった殷王朝の実体が明らかにされた。京都鹿ヶ谷泉屋博古館で貴重な青銅器の数々を実際目近に見ることが出来る。これらは当時張作霖爆殺事件、世界大恐慌等社会的不安のなか、中国では並以下の骨董、重いガラクタ扱いされていたが、住友コレクションが日本に持ち帰り、大戦後英文で紹介されたことにより、俄に注目されることとなった。工芸水準の高さに魅入り、発想の奇抜さに度肝を抜かれる。泉屋博古館と芦屋の白鶴美術館にも逸品がある。ここではそのうち、関係する3点を取り上げてみよう。
     
虁神鼓(キジンコ) ー 虁神鼓は厚さ3〜5ミリの銅製で高さ82センチ重さは71,1キロ、太鼓の両面に鰐皮を張って鋲留めした形を模し、四本の短い犧首尖足(センソク)で支えている。上部の釣り金具は2羽の水鳥が後背して、太鼓の正面には人面、羊角、虎耳、獣爪、羽毛の虁が蹲居し、両脇に虺竜、魚文が几帳面にビッシリ線刻されている。

資料6―1、2、3 夔神鼓  夔と虺竜 殷墟  泉屋博古館蔵 夔の面 江西省新干県大洋州 江西省博物館蔵
 虁は両手に一杯物を持って1本足で踊る羊角の神獣というのが通説である。紂王の時 揚子江武漢、鄱陽湖南昌辺り虁国へ遠征軍が省察した。その記録が小臣余犠尊(ショウソンヨギソン)犀形酒器の金文に刻されている。虁の金文の文字羊角則身は一足である。

資料7 小臣艅犠尊 一角犀銅器金文 夔ノ祖国ヲ省察シタ 夔の一足文字 殷墟

 ①  虁は1本足で跨踔(コタク)して行き、石を撃てば雷鳴の如く百獣伏して従うという。太鼓の側面の鰐皮は、その昔、黄帝が虁を捕え、皮を剥いで太鼓を作ったという。舜帝の時、典楽の祖となった。これは架上説である。虁が何故1本足といわれるか、孔子は「虁は愚直に一足である、それで足る」と説明する。併し、孔子は怪力乱神を語らない。一以貫之(いつもってこれをつらぬく)は孔子の仁一筋の教えである。儒家の後付であろう。虺竜と魚文、跨踔一足羊角の虁とは何か。

 「三羊を沈める」といった沈祭の伝統がある。これは羊神判である。雄羊の端正な美しさ、一番大切な生活に密着した動物を犠牲にすることで神に祈る。羊神判の白川文字学、苗族の四蛙銅鼓(シアノドウコ)は語る ーこれも泉屋博古館にある、銅鼓は蓋の部分まで土中に埋められた。「冬の間 土中に埋められていた銅鼓は春の訪れとともに掘り出され、その年の豊作が祈られた。掘り出す時に蛙が見えるところに意味があった」。夔神鼓は水鳥の部分まで水中に置かれた。稲の籾を麻袋に入れ虁神鼓に詰め寒中河川に沈められた。やがて巡り来る春、播種期、発芽成長して豊かな稔りを約束する。雨期、蛟(ミズチ)虺竜は雨雲を得て竜となり、虁は立ち上がり羊角は鋭角に、獣骨の撥(バチ)を持つ鬼神となった。跨踔して地を蹴り岩を撃った。凄まじい爆裂が起こり黒雲に稲光りが立ち、地が鳴動した。將に虁は一本足で踊る。稲妻と雷鳴の年は稔りが良かった。竜神は洪水を治め、旱天に慈雨を齎す。虁は両手に一杯秋の稔りを持って舜帝の前に現れた。夔神鼓の底には四角の穴が空いている。籾を水漬けにすることは害虫の駆除になり、発芽を促す。稲妻は根リュウ菌を育て、天然の窒素肥料をつくった。里人は虁を畏れ敬い、国王の言葉を信じた。
 夔神鼓は他に1鼓、世界に2例、1977年、崇陽出土、湖北省博物館に鎮座する、やや小振りである。夔神鼓は何故太鼓なのか、尤もな質問である。神は人の聲は聴かない、撥さばき、太鼓の音だけを聴き分ける。人の営みが太鼓から放たれる魂の叫びである。今日の電電太鼓を持ち、一本足で踊る田植神事、田楽舞は虁に由来するのではないだろうか。
 荘子に  
  虁ハ ゲン( )ヲ憐(ウラヤ)ム という言葉がある。一本足の虁は両手に一杯物を持って百足のムカデを羨む。人間の欲望のあくなきを嘆く譬喩として語られるが、荘子は続く、
   ゲン( )ハ蛇ヲ憐ミ 
   蛇ハ風ヲ憐ム
百足のムカデは足がないのにスムーズに動きまわる蛇を羨み、蛇は自由に吹き抜ける風を羨む。虁も虺竜も里人の願い通り雷神となり竜となって空に舞い多くの稔りを齎した。ただ、荘子の自由はもっと真の自由である。  
  風ハ目ヲ憐ミ    
  目ハ心ヲ憐ム
読んでの通り、風はどこでも吹き抜けるが、目はじっとしていて何処でも見ることが出来る。また、心は目を閉じていても世界中どこへでも想いを馳せることが出来る。真の自由とは心の自由である。しかし、自由を得る
 欲望のそのさきでは、力まかせに昇りつめた亢竜は悔い、虁は足るを知らない鬼となった。虁神鼓を残した紂王の最大のキズは、人間の最も慎まねばならない傲の一字である。雲南省苗族の民話に虎と竜、人間のチカラ較べの話がある。虎はものすごい勢いで山野を駆け回り能力の高さを誇示した。竜は神出鬼没、変幻自在であった。人間の子供は山麓に火を放った。虎も竜も一目散、逃げてしまったという。どうにもならないのは人間ということらしい。虺竜は七百年後 戦国時代末期 真の竜となる。
鴟鴞尊(シキョウソン)(尊は酒器) ― ミミズク型酒器、野ネズミから農作物を守るフクロウの形。翼に虺竜文がある。資料8

 虎食人卣(コショクジンユウ)(卣は取手のついた酒器)― 農耕地を侵す異民族を捕虜としている。殷は多民族国家で、周辺領土は他の遊牧民族によって頻繁に農作物が掠奪された。そのことが甲骨文に数多く刻されている。王は十日ごとに異民族征伐の占いを立て、奴隷を犧性として幾人かの首を切り坑に埋め、怨霊を断って征戦した。軍の数、三千人、五千人のときもある。異人を捕まえ、羊の耳で偽装した虎は神霊的表現であろう、何者をも怖れぬ虺竜文があり、王冠を戴いている。資料9
 ところで、四川省、成都で青銅の大仮面が発掘された。  成都の北、三星堆遺跡である。1986年の夏、見るからに異様、蟹のような目が真っ直ぐにとび出す直目縦目、そして大きな口、牛耳、巾136㎝、高さ63㎝、見る者を威圧する大魔神。蜀国最初の支配者、「蚕叢」に比定される。ところが鼻筋、眉間に竜の縦飾りがあり、それは蜀竜である(徐朝竜、三星堆・中国古代史の謎  図19)

 蜀竜は成都の遥か西北方、崑崙山に棲み、人面竜体、身体の長さは千里、目を開ければ昼、閉じれば夜、息を強く吐けば雷電、冬、ゆるく吐けば風雨、夏、鼻からの息は風となり、天下に昼夜を齎す造物主的な神であるという。では、直目縦目は何の為であろうか。蜀犬は日に吠えるというが、蜀の日照に関係があるのか、蚕叢王とは名の通り養蚕を奨励する。仮面は目を閉じず日照を加減、蚕の生育と繭の豊作を祈願したのであろうか、それにしては面妖な。 三星堆の青銅鬼神文化は蜀が牧誓に参加したBC1050年頃から殷周の同時代に栄え、中原の文化を受け入れつつ、BC700年頃消滅した。異民族、部族間の抗争か、重税に喘ぐ民衆の反乱か、祭祀器は破壊され、狭い土坑に投棄されていた。古代の鋳造技術その造形はすさまじく凄いが、偶像崇拝は時として虚仮脅しとなり、神の名のもとに搾取人殺しをする歴史がある。民の怨嗟の声が聴こえる。

資料8 鴟鴞尊 羽根に虺竜文  殷墟  泉屋博古館 資料9 虎卣  腕に虺竜、宝冠を載く 西周 泉屋博古館


6、甲骨文  竜  (竜の古代文字)資料10

「壬寅(ジンイン)雨が降らない 天帝はこの邑(殷)を寵(メグ)まれんか、(竜神は)諾せざるか 二月」 ー 植物の作付けが出来ない、王の心痛を思う甲骨文卜辞の記録である。神と交信する巫覡(フゲキ)は文字を生んだ。竜の文字は頭に辛字形冠飾りをつけた蛇身の獣形で表わされる。霊獣たることを示す。三千三百年も前の人の考えが文章で、直筆の書であることが凄い。又、竜の頭部に自己詛盟の辛字形(白川静 字通)を当てた巫覡の創意信念は更に凄い。詛盟の毀損は許されない。逆に、河川の氾濫を恐れ予告する虹竜の卜辞もある。


資料10 甲骨文  竜の文字 双頭の虹竜 竜河に飲む 寵 殷墟 
  
 3300年も前の人の考えが文章で、直筆の書であることが凄い。   「王占いみて曰く 祟りあり 八日庚戌(コウジュツ) 各雲(積乱雲)東よりし 夕暮れのよう晦し 虹出る在り北よりし 河に飲む」 ー 洪水の前兆である。虹は虹竜、半円弧の虹の両端に頭部が描かれている。飲むは水槽の水を啜る竜の則身形が彫り込まれている。虹は秦末、漢代まで1千年以上怖れられた。その記録がある。

 漢書 ー 「驟雨あり 虹 宮中に下り井水飲む 井水渇る(落雷)城門を焼き 后姫官女皆恐る 王  驚き病む 人をして葭水(カスイ)、台水に祠(ホコラ)しむ ー 武五子伝(第33)燕刺王旦の項。 後漢から五胡十六国時代、シルクロードを通じて西域の文化が東漸した。世界で最も海から遠い都市ウルムチのボゴダ山観光地、「天池」で日本人客は気紛れな雨に失望したが、案内に立った原地の人は大喜びした。鮮明な虹は雄竜、蜺(ゲイ)は淡く副ニジで外輪が青紫、雌竜とされる。虹蜺はオアシス文化の瑞兆であった。長恨歌は霓裳羽衣の曲を詠む。


7、巫 覡(フゲキ)

 殷の氏族は競って酒を醸し、青銅器を誇って祭祀に励んだ。鴟鴞尊 虎食人卣に酒を盈たし、数々の彜器(イキ)に供物が盛られ、鼎に肉が煮られ、巫覡は天帝に祈りを捧げた。然るに亀甲卜占は、結局は王の、我欲である。神権政治は最後に悲劇を生んだ。心労が重なり、ストレスを増幅、悪夢に魘(ウナ)され、歯痛、狭窄、単なる事故までもが誰か恨みある者の呪い、異民族の祟りとなった。猜疑心を掻き立てられ、故なく他部族を攻撃、霊験なき巫覡は容赦なく殺された。
 
 周王武の軍師呂尚は亀甲卜占を信じない。元肉屋職人の呂尚にとっては牛や鹿の骨は単なるガラ、亀の甲に天下国家の事象が解ってたまるかと足で踏みつけ、叩き割った。呂尚が信じたのは周易の合理性である。天体の運行から割り出される予測可能な自然現象であった。周易には水田耕作を通じて代々受継がれた永い蓄積があった。理不尽な殷を攻めるにはどうしたらよいか。横暴極まる殷には四方に反感を持つ部族が居た。今、殷の軍隊は人方、沿海地方へ遠征している。安陽を襲撃するのは今しかない。伐たなければ伐たれる、周が生き残る道であった。然し、途方もなく広大な大陸で殷に対抗する七部族の勢力が、敵にさとられず、同時刻一箇所に集結するには、どうしたら可能か。呂尚は冬至の満月から次の新月、明けの明星が東の空に輝く早朝、牧野に全軍を糾合した。金星は8年ごとの周期で同じ場所に光り輝く一等星である。武王の軍が聞夙(モンシュク)眞暗闇のなか、金星を目印に集まり進軍したことが、昭和五一年(1976)発見された簋器(キキ)、周易利が恩賞として賜った利毀の金文に刻されている。歳鼎(サイテイ)、その解読によって殷の滅亡が歴史上確認された。七部族の運気「牧誓」は雲を呼び竜となって殷都を急襲したのである。甲子未明に始まった戦いは半日余りで終結した。竜は冠飾りのある霊獣である。辛字形の冠は傲りを瞋(イカ)る、傲る殷王紂は天命を失った。鹿台に火を放って紂王はその中に消え殷は滅亡した。然し、殷墟が発掘されて明らかになったことは、歴史上伝えられているような、紂王は根っからの馬鹿者、淫蕩、無慈悲な道楽者ではなかった。国政を疎かにしていないし、祭祀を怠ってもいない、牧野の戦いで周軍は姐己(ダッキ)の首を槍の穂先にかけて凱旋したというが、現実には姐己の実在した形跡もない。唯、紂王は権力者が陥り易い 財宝を好み、猜疑心の強い野心家ではあったようである。ー と現代の歴史家は語る。


殷が滅びた時
 紂王の叔父箕子は朝鮮半島へ逃れ、そのまま半島に封じられた。箕子朝鮮である。多くの知識人、シャーマンが箕子に従った。彼等巫覡は三百年間甲骨文に貞人と刻され、神託を聴き、王に告げた。神権政治は殷滅亡の元凶となったが、巫覡とて我執専横、神を冒涜する国王の圧力から逃れ、一生懸命人間としての在り方を問う自由な祈祷を満喫することが出来たのではないだろうか。多くの犠牲、首を切られて土に埋められた羌人の怨念を振り払うことができたのではないか。真摯に祖霊を奉じ、巫覡は更に自由な天地を求めて朝鮮半島を南下、済州島に至ったに違いない。千年後の倭国、日本の博多では占いに使われた卜骨が発見されているし、耶馬壹国の女性卑弥呼は鬼道に通じていた。甲骨文字にある殯(モガリ)の風習は今日でも、日本の一般家庭葬儀のお通夜として踏襲されている。本来、形式的華美な本葬より、お通夜が重んぜられるべきである。


8、剣と剱と刀

 武器、利器のはじめは斧鉞(フエツ)である。石を棒に括りつけて相手を打ち倒す斧のこと、父の字源はクロスした闘斧の形である。鉞は青銅のマサカリ、王権の象徴であった。次に戈(カ)、矛(ホコ)、弓がある。弓の矢尻には尖った小石、骨、隕鉄が使用された。鏃と書き、一族で行動する鉄族の意がある。隕鉄はやがて青銅にとってかわる。遊牧民は青銅内反りの刀子(トウス)を持つ。戈、矛など青銅の利器は殷の時代発達した。西周後期になって剣(ケン)と戟(ゲキ)が出現、戟は敲(タタ)き突く武器である。劍は「周礼」考工記に「桃氏劍を為(ツク)る」の記述があり、桃氏の劍と謂われる。基本的に劍は人を切るものではなく、神の降臨を請い祈るものである。劍には恭儉の意があり、利器を持って2人が共に舞う姿であると字源は語る。劍柄分離する琵琶形遼寧式銅剣と河套、万里長城北部黄河屈曲部一帯をさすオルドス式有柄銅剣がある。漢代、鉄の普及と共に発達した片刃の長剣は刀(トウ)である。劔の文字は日本、倭の異体字である。天叢雲劔がこれに当たる。
 最古の人口鉄は、塊錬鉄の短剣で河南省西周末の墓地から発見されている。鉄の塊を叩いて延ばしただけの短剣である。
 
 春秋時代、荘子養生主編に庖丁(ホウテイ)文惠君の為に牛を解く、故事がある。游刃有余地(ゆうじんよちあり)は横山大観画伯が描いた。その料理刀は白鷺の羽根のようである。無窮を逐う大観の、わかったようなわからない習作である。資料11

 
資料11游刃有余地   春秋時代後期 魏の都梁 荘子の逸話  横山大観 習作
 
 桑林の舞いのような包丁捌きで肉の塊りがドサリと床に落ちた時、文惠君は、アア、何と素晴らしい、技もここまで極まれるかと感嘆した。牛を解体し終えた庖丁は一呼吸、刀を置き釈然、文惠君に応える。自分の望む所は技術ではない。技を極めはてた道であると。今では心の動きで牛をとらえ、目で見、形に頼らない。筋や肉が絡み合っている部位でも、節には間がある、刀刃に厚みはない、恢恢呼としてその刀を遊ばすに必ず余地があり、自然の摂理に従うだけであることを述べる。荘子は包丁という薄い利器に喩え、自我を捨て功名を求めようとする心を放棄、万物に順応して天地に遊ぶ心、それが養生の主と説く。包丁は斧鉞のように叩き、圧し、断ち切るものではなく、微に押し当て、引き切るものである。当時、薄い刃物が工夫されたことが伺える。
 呉越春秋時代で名高い干将、莫耶の名剣は夫婦愛復讐譚で、幻の魔剣である。イラストは銅の刀子を北方騎馬民族短剣風に描いたものであろうか。陰陽太極図紋が気になる。  
 
資料12干将・莫耶の名剣  戦国時代前期 夫婦愛復讐譚  妖剣のイラスト  殷代青銅の刀子 
臥薪嘗胆で膾炙されている越王勾践呉を破るの名剣は楚で発見された。見事な鳥篆文字、花菱文様は鈍い黄金色を放ち今日でも人々を魅了する。  

資料13越王勾践呉ヲ破ルノ剣  戦国時代 「臥薪嘗胆」のエピソード 楚で発見される 司馬遷史記

 銅に錫を加え、刃を鋭利に硬く、アルミを加減して剣背文様を浮かしている。後の楚剣の鋭さが窺え、百戦して尚輝きを失わなかった項羽の持つ剣が、また、この造りであったかもしれない。青銅の剣は戦国時代から秦漢と続くが呉越の戦いまでが秀逸最高で他に例を見ない。以後は鉄刀が主流となる。劍は石劍となり、神事用となった。剣は人を斬る為のものではない。出雲荒神谷遺跡358本の銅剣は何時しか土中に埋められていた。神の降臨を祈るものである。

 本題の須佐之男命は閃光型十拳剣を持って大蛇を退治したと云われるが、先端が正三角形の閃光型は不動明王が所持する直言密教の煩悩辟邪の剣で現実のものではない。須佐之男は遼寧式で少し細身の朝鮮式、荒神谷に埋められたと同じ剣を持ったと考えられている。或いは、素環頭の大刀、鉄剣であったかもしれないという見方もあるが、それなら須佐之男の大刀の刃が欠けることはない筈である。

資料14朝鮮式銅剣 ソウル崇田大学校博物館  銅剣の形 オルドス式(有柄) 遼寧式(幅広) 朝鮮式(細身)

 

9、 玉 器

 玉器についてもう少し考察してみよう。玉器は揚子江文明に逸品が多い。主に崑崙が産地。楚の「和氏(カシ)の璧」は趙に伝わり、秦の昭襄王が五つの城と交換しようと持ちかけた。其の交渉対決の場で、黙って置いて行けと言わんばかりの秦の嫌がらせ、圧力に屈せず、礼節を弁えた胆力機転で無疵のまま持ち帰った藺相如(リンショウジョ)の「完璧」の故事は名高い。連城の璧とも言われる。璧とは中央に穴のある平たい円板状に作った玉器のことである。たかが石をと言う勿れ、たった一枚の紙切れに家内安全、福徳長命 交通安全まで書かれた神社札とは訳がちがう。ホータンの玉には光が籠る。恰も生命が宿っているようである。人徳のある王侯貴族の持ち物で代々継承され、その印符は国軍統帥の象徴でもある。

 秦末、項羽と劉邦の逐鹿戦で、項羽は鋸鹿城の章邯戦(ショウカンセン)に手間どって長安進攻に遅れた。その時、函谷関を閉められたことで項羽は激怒、盟友ではなかったか、敵対なら劉邦軍を蹴散らすまで、最良の口実が出来た。その機会であった鴻門の会。老軍師范増は、劉邦の腹のうちを見透かしていた。この機を逃せば以後災いが項羽軍に及ぶ。玉玦を握りしめ、三度持ち上げ、目くばせしたが、項羽は動かない。謝罪され、大王と奉られ、自尊心をくすぐられ、何時にもなく鷹揚に構えていた。剣舞に殺気を感じた劉邦は張良の機転で義弟樊噲(ハンカイ)に守られ、尿意を理由に宴会場を出、そのまま去る。絶好の機会を失って范増はくやしがった。言葉もかけず酔いのせいで退席した非礼、おわびにと項羽に贈られた白璧、自分が貰った玉斗は長剣で叩き割った。


資料15白璧、玉玦、玉斗 

  唉 豎子(ジュシ)謀るに足らず
  決断しなかった項羽の運気が半ば砕けた瞬間である。歴史上最高の場面で玉器が活躍する。そのことを知った劉邦は、後日 和睦交渉の神経戦で、項羽の使者を「范増殿の御使者かと」と惚け、用意した大牢(牛の料理)を引いて、小牢(羊の肉)に切り換えさせた。使者の言葉に項羽は不信を懐く。范増に謀叛の意ありと噂が流れ、范増は項羽陣営を去ることになる。其の後、項羽は垓下の戦いに「四面楚歌」となった。野営から聞こえる楚歌に項羽軍の兵士は故国を想い涙した。劉邦の軍営に何と楚人の多いことよ。

  逐鹿戦のさ中、項羽は秦の軍隊に苛烈であった。楚軍の精鋭部隊は力まかせに秦の連合部隊を叩き潰した。劉邦軍は寄せ集めの部隊である。遠回りしながら長安を目指したが、敗者に情状酌量、後には戦わずして敵を味方につけた。進攻後も法三章を課すのみ。

  項羽は長安を手にしたが、長安の知識人は楚人の中国統一の大業を疎んじ、沐猴にして冠すと嘲った。項羽は一言主を探し出して釜茹での刑にした。長安に都を置く気はない。咸陽宮を焼き、三世皇帝子嬰を弑(シイ)、秦王朝の厳罰酷税、長城建設の徴用から人々を解放した。領地配分を終え、自らは西楚覇王、劉邦は漢王となった。併し、配分の基準が功績でなく、項羽個人の感情によったため不満がたまり、各地で叛乱が起こる。軍功第一の劉邦は蜀の僻地であった。一旦は蜀の桟道を渡るが、橋を落として退路を断ち、項羽を油断させ、山越えして洛邑に還った。山岳民羌族は劉邦軍についていた。楚漢の戦いが始まり、三年に及ぶ武力と軍略、神経戦で垓下に至る。和睦して楚に帰る途上であった。劉邦は約束に反して項羽を追撃した。項羽は天を仰いだ。ー天はわれを見捨てたかー

力 抜 山 兮  気 蓋 世    ちからは やまを ぬき きは よを おおう
時 不 利 兮  騅 不 逝    ときに り あらず すい(馬の名) ゆかず
騅 不 逝 兮  可 奈 何    すい ゆかざれば いかんせん
虞 兮 虞 兮  奈 若 何    ぐ や ぐ ―・ なんじを いかんせん

後に覇王別姫と謂われるガチョウの炙り焼きに鼈(スッポン)の鍋、野営を最後に救いの亭長の言葉を遮り、―何の面目か あって父兄にまみえん 、追っての中に斬り込み自決した。
 秦王嬴政(エイセイ)は黒竜の末裔、劉邦は赤竜の子孫といわれる。政の出生はいずれの者とも知れない武器商人呂不韋と芸妓の子であり、劉邦は、もと無頼の徒であった。項羽は楚国名門貴族の出身である。運と徳、実力とで人は竜となりえた。天が項羽を見捨てたのではない、天よりも高く昇りすぎた、後世、項羽の人気は始皇帝よりも、漢の高祖よりも高い。一途で純粋、何時までも昇りつづける白璧の・・・いや、青竜であると言わねばならない。

  項羽の故郷 楚には碧玉の高度な文化があった。前漢の楚の王陵から貴人を葬った金縷玉衣、銀縷玉衣が発掘されて世間を驚かせた。永遠の命を祈願したもので、これは新彊ウイグル自治区ホータンの玉が綴られている。被葬者の胸には玉竜が置かれたはずである。獅子山王陵の、その玉竜もホータンの石であろう。線刻は繊細巧緻である。竜形は幾分キュートになった。

資料16 線刻玉竜  金縷玉衣  吉祥、武運長久 永遠の命を祈願  江蘇省徐州市 獅子山、楚王陵

ホータンの玉はシルクロードの河西回廊、酒泉に加工場がある。かの有名な葡萄の美酒夜光杯は、暗闇に光の紋が浮く石を薄く薄く削られ、磨かれている。光が入ると月林の趣きがある。これは祁連山の石である。酒泉玉は墨玉、碧玉、黄玉に分類され、高温や低温に耐える特徴をもっている。ホータンの石と共に古くから長安や洛陽にも遠く運ばれていた。周 穆王の時、西胡がホータンの夜光杯を献上した記録がある。白きは羊脂の如く、光は明るく夜を照らすようであったという。
  閏年 四百年。天上の西楚覇王は竜轡(ヒ)を迂(カ)えし、 竜嘯(ナ)いて山河震う。後漢末の兄弟の争い、釜中の豆は逆鱗に触れた。天下三分の計、魏呉蜀の戦い、師走のレッドクリフに東南の風が吹いた。

 三国志 ─、魏の曹操高陵展では透かし彫り双頭竜形の觿(ケイ)が展示された。双頭竜は太古の天地創造伝説伏犧女媧(フクギジョカ)の漢代磚画竜形蛇身に相似する。觿の字の旁部は、冠飾りの鳥を台座に載せて進退を定める鳥占いの文字である。祭り御輿と、その棟飾りが文字になった。觿は貴人の帯の結び目を解く。觿解(ケイカイ)は以って結びを解くべし、紛乱を解くとある。竜形は、將に人々の平和の願いが籠った神宝である。

資料17觿(ケイ)  後漢 王侯貴族の装身具 牙形玉板に透し彫りで龍を表す  (白) 河南省文物考古研究院 (赤) 河北省定州市博物館

 玉竜が角状になったものが觿であるなら、吉祥の徴として縮小したものが勾玉ではあるまいか、勾玉に似た觿もある。その勾玉は早い時期、博多の古墳に出土例がある。卑弥呼の墓に比定される平原古墳の勾玉は頭に筋のある、最も初期のものである。
 然し、これまで勾玉もオロチの言葉も見当たらなかった、何故であろうか。


10、オロチ と 勾玉 と 竜

  5千年前から始まった地球の寒冷化とともに中国東北部の紅山文化は衰退した。北方の遊牧民族は南下、遼寧地方で半農半牧の生活を営み、青銅器の文化を伝えた。黄河中下流域では、夏の王朝が400年、次いで商、殷は600年栄え、青銅器の文化を発展させた。朝鮮半島では伝説の檀君朝鮮があり、濊貊(ワイハク)族が暮らしていた。BC1046年、殷は周の武王に滅ぼされ、紂王の叔父箕子は朝鮮半島に逃れ、そのまま封じられた。春秋時代、鮮卑系山戎は遼寧地方に居て燕、斉諸国に侵攻した。モンゴリアに居たツングース系の民族、東胡も匈奴を圧倒して一時遼寧地方に勢力を伸ばした。戦国時代、燕の昭王は将軍秦開を遣わして東胡を討ち、東胡系の一派は朝鮮半島大同(平壌)に寄着した。燕の鉄器、斧、鉄、鎌、包丁が流入して畑作文化を形成する。BC3世紀末より匈奴が活躍、冐頓単干がモンゴルの諸部族を統一。戦国末期、荊軻(ケイカ)は燕の密命を受けて始皇帝暗殺を図る。秦、燕を討つ。BC221年、秦中国を統一、秦の統治は僅か20年、漢は秦を滅ぼし、故地に候を封じたが、燕は離反、燕王盧綰(ロワン)は匈奴に亡命したが、配下の衛満は箕子朝鮮40世準王を頼る。後、準王を追放、衛満独立、衛満朝鮮となる。準王は馬韓に逃れ、自立して王を称したが、消滅する。
  BC108年、漢の四郡政策により、武帝は衛氏朝鮮を破り、楽浪外四郡を置く。漢の四郡政策に抵抗する過程に於いて民族意識に目覚めた高句麗が、いち早く半島北部に国家を成立。前2、1世紀、馬韓、辰韓、弁韓は連盟体を形成した。馬韓50余国、辰韓、弁韓は夫々12カ国から成る。BC72年、漢の宣帝は五将軍20万騎をもって遼寧地方を征戦、匈奴は遠く逃げ、遼寧に暮す枝分かれの一団が豆満江を渡り南下、東海岸沿いに馬を走らせ、鳥を追い、洛東江下流まで押し寄せ定着した。この一団こそ、オロチョン、オロチ族であろう。そして現地の鉄文化と競合した。辰韓は半島南端、蔚山、旧意呂山(オロヤマ)から洛東江下流一帯に溶融炉、鍛治精錬の跡を残している。鉄器と共に青銅器、スキタイ式動物の意匠を透かし彫り風に表現した銅板や、慶尚北道 漁隠洞遺跡からは四乳地竜文鏡が出土し、それは遥か北方、遼寧省西ホン溝から変形四虺文鏡が出土していて、そのオリジナルが対馬に存在する。
  魏書、東夷伝、弁辰条には、

「国は鉄を出だす。 韓、濊、倭は みなほしいままにこれを取る。諸々の市買はみな鉄をもちう。
   中国で銭をもちいるが如し、又、以って二郡に供給す」と記録する。
再び、
  硬玉の文化は、ここでは勾玉となり、勾玉は動物の凝固脂を虺竜形に切り取った魔除けの形に似ている。勾玉は韓国と日本以外では見られない。勾玉は早い時期の日本では筑紫平原遺跡から首飾りと共に丁字頭の勾玉が発掘されている。丁字頭は頭部に3本の筋のある古い時代の勾玉である。筋が何の為にあるのか、これは不明で考古学の見解が待たれている。出雲大社蔵の重要文化財、見事な水晶ブルーの勾玉には筋がない。富山糸魚川産の石で、四世紀後半のものであろう。韓国にはヒスイの原産地が見当たらない。鉄と糸魚川産のヒスイと交換されたとする見方がある。初期平原遺跡の勾玉はガラス製である。ヒスイは日本の交易の嚆矢かもしれない。誠に三種の神器たり得る。玉竜は中国で漢代、軟玉の觿(ケイ)となり、韓国と日本では硬玉の勾玉となった。勾玉を胎児の形とみたり、再生を告げるお玉ジャクシの形であったり、獣牙、狼の牙説もあるが、それでは単なるアクセサリーとはなっても神器とはなり得ない。3本の筋目は、觿の向かい合う雌雄双頭の竜を意味しているのではないか。清酒白鶴辰馬考古資料館の勾玉には二つのコブがある。「考古学者、梅原末治は、この種の禽獣魚形勾玉が勾玉の起源だと考えた」(梅原猛)又、日本最古の王墓、福岡市吉武高木遺跡出土の勾玉には目も口も足もある。


資料18―1、2金の王冠飾  朝鮮半島南部伽耶文化  禽獣魚形の勾玉

  同時にこの頃から鼎の虺竜は銅鏡の背面に鋳込まれ、鏡が写す人の魂、全徳の守護となり、真の竜となった。竜は逐鹿戦で鹿の角を得、尾には花形の蕝(せつ)を持った。蕝は天子の位を表す持物である。

資料19−1、2銅鏡 竜図  後漢 銅鏡紐部の鋳造絵 鹿角と蕝を持つ

 BC57年辰韓は東部地域を併合して、脱解王以来集権的な国家体制を整え、後には、徳業も日に新たにして四方を網羅する意味の新羅へと発展する。百済は馬韓の小国の一つから始まり南西部に勢力圏を持ち(国の号を南扶余)二国は争いながら高句麗と対立した。後漢、光武帝の時、倭は百余国に分かれて国を形成し、楽浪を通じて朝貢、金印を贈られている。「漢委奴国王」、これは蛇紐の印である。気味の悪い蛇であることを不思議に思うが、蛇は野鼠を捕食し、稲作の大切な守り神である。同時期、雲南の滇王の印も蛇紐であった。中世、タイ国王は寝室の隣に蛇の部屋を特設した。妃姫よりも、稲作を、蛇を大切にした報告もある。

WHOのマークは、ペストの流行で苦しんだ大変な時、鼠を駆除した蛇がシンボル化されている。漢の皇帝は地域によって獣を替えて下賜した。文字を知らない異民族にとって、印字よりも蛇紐こそ意味があった。蛇紐の印は志賀の島の棚田の水路で発見された。1784年、「田の境の中溝の流れが悪かったので2月23日に溝の形を修理しようと岸を切り落としたら、大きな石が出て来た。この石をかねの延子で取り除いたら、石の間に光るものがあった」と、発見者、甚兵衛口上書にある。蛇は、虺竜は稲作にとって大事な用水路の守り神となっていた。

資料20蛇紐印 後漢 光武帝より 倭奴連合国王に贈られる 志賀島
奈良大和、三輪山には蛇信仰があり、さきの仏教国インドでは七頭の巨大ナーガが悟りを開いたばかりの釈尊を激しい風雨から守っている。

資料21巨大ナーガに坐る如来像 釈尊を守護する七頭のコブラ。クメールの建国伝説

 竜は勿論、蛇も大蛇も邪悪ではなかった。それが何故、古事記 鳥髪山ではオロチ竜、大蛇が年毎に来て酒と女を食らうのか。
 ところで、竜が持つ真円の球体は古代中国では見られない。その昔「釈迦の降誕に当たり二大竜王が虚空より清浄水を濯ぎ、法華経序品には八大竜王来たりて仏法を聴いた」と云う。八宗の祖竜樹菩薩は大智度論を表した。鳩摩羅什訳の摩呵般若波羅密多大呪経、玄奘訳般若心経はよく知られた不磨の経典である。王宮の竜が持つ真円の球体は後漢以降、法華経宝珠の思想からであろう。わが国日本へは稲作やお茶と共に伝わって、水墨画の竜は禅林の堂宇で智恵の雨を降らせている。臨済宗妙心寺の天井画には且坐(シャザ)喫茶の頌があり、三隅町龍雲寺の格天井には大龍が八方を俯瞰して山門に心眼を開く、の偈がある。オロチ竜・大蛇とは大違いである。

資料22―1、2竜雲寺格天井 八方瞰の竜 狩野法眼惟信水墨画   蟠竜  江戸時代 妙心寺法堂の天井画 狩野探幽。

11、竜のヒューマニティー

 
          

 では、山門の竜が法堂(ハットウ)の天井から八方を俯瞰、智恵の雨を降らせ、心眼を開くとは何か、それはどういうことか。竜が単なる吉祥と守護の象徴から法力と知能を得て人間以上の存在となったことを意味している。勿論、竹林の七賢の清談に思いを馳せ、生死の公案を会得する道場の竜ではあるが、龍雲寺の蟠竜は目の前の日本海のZ海域に落下したテポドンに瞠目、G7国際会ギ、広島サミットに心を砕いている。日本の国家安保戦略は近年、敵基地攻撃能力の保有に力点を置くが、対話や緊張緩和の努力、その視点に欠けてはならない。驕れる者久しからず、テポドンは最強であるが、無慈悲は共に滅ぶ。以下墨絵8点から竜のヒューマニティーを
 海北友松の障壁画の竜図には武士でありながら共に戦えなかった悔しさ、悲しさ、苦渋の思いがある。加山又造の竜には空腹に耐えられず、画材の膠を溶き舐めて遺り過した画学生時代を忘れず、太平洋戦争への怒りが怒涛のタッチで描かれている。狩野芳崖の親子竜は平和への思いがある。異端の画家、長沢芦雪、曽我蕭白の竜は狩野派への対抗心、「図は知らず、絵は我へ」と独歩の気概が滲んで抒情的である。昭和6〇年であったか、はるばるボストンから蕭白の竜が一時里帰りした。天王寺美術館に展示され、紙幅16メートルの長大な竜が涙ぐんでいた。堅山南風、横山大観の竜は穏者の風、大宇宙に遊ぶ竜の心があるとか。伊藤若冲の竜は、ビックリ驚天、青天の霹靂。皇帝になりたい者が兄弟国の都市インフラを破壊し、市民を虐殺、土地を奪う矛盾は蔽い難い。「拝啓プーチン様、正しい道を。(今からでも遅くありません)、あなた一人の決断によって地球の未来が変わります。どうか良い選択をして下さい」朝日新聞『声』14才。世界にノーサイド精神を。これらの絵には竜のヒューマニズムがある。








  又、日高川の清姫は旅の僧に娘心の純情を裏切られ、恋の情念は怨みとなって燃えさかり、大蛇となり、竜となり、梵鐘をとぐろで巻き、中に隠れた安珍を灼熱の恋で焼き殺した。竜田姫は美しくなりたい一心で夜な夜な十和田湖の水を飲み、終に永遠に美しい竜女となった。ブロンズ像が湖畔にたたずむ。奇譚ではあるが灼熱の恋とか、美しくなりたい女心の真情は竜の気となって立ち登る。
 そして、古事記のオロチは年ごとに来て酒と女を喫(くら)い、悪竜とされたが、公正な目で見ると、何故にもオロチが人肉を喰らい、女人をなぶり殺しにしたとは書かれていない。そこにはオロチ族の熱い想いがある。過去7人の女性はオロチの同族として、よき仲間一族となったのではないか。何ら抵抗らしきもせず、7人の娘を差し出しておきながら、今さらオロチ族を殺してくれ、退治してくれと頼むほうも如何なものか。悪竜とされたオロチは大和王権成立の被害者、犠牲である。真夏の深夜に演じられる石見神楽の竜にはどこか哀愁があり、ヒューマニティーがある。若者が踊る竜の所作、大蛇には活き活きとした動きに愛情がある。オロチは退治されたが竜になりたい若者は年ごとに増え、昨年、22年夏、東京国立劇場では50頭のオロチ竜、大蛇が一同に会した。蔭に姫を従え樽酒を並べ、大演舞となった。オロチの魂が仲間となり、一族となり、平和に暮らしている証左である。
 北海道網走にはモヨロ貝塚があり、オホーツク人の人骨が発見されている。1940年頃からモヨロ祭りとして北方民族を慰霊する祭が行われ、大戦後樺太から引き揚げて来たウイルタ民族、ニブフ民族の協力でオロチョンの火祭りとして先住民の慰霊と豊穣を祈願、正式に市の夏祭りの行事とされた。(ウィキペディア) 焚火を囲み、太鼓とコロホルを打ち、輪になって踊る。想うに、古事記オロチは悪竜とされた。無念である。来る25年大阪万博では島根と網走の共催で石見神楽オロチ慰霊祭が企画されないであろうか。殷の紂王は悪名高い王であったが、安陽の遺跡からは蓮の花と二種の竜が舞う水盤が発見されている。真の用途は解明されていないが、多くの民族を虐げた殷の巫覡は蓮竜の水盤に神の降臨を祈ったに違いない

 

 
                                                  

12、日 本 刀

 紀元AD147〜188年倭国大いに乱れる。卑弥呼が倭国の女王に共立される。魏は対高句麗戦の最中に、倭と軍事同盟を結ぶ。239年、邪馬台国女王卑弥呼は魏に朝貢する。魏からは   
  銅鏡百枚   
  5尺の刀2口
 赤地に2匹の竜を描いた、降地交龍の錦織を拝戴、親魏倭王の称号を与えられた。 5尺の鉄刀は環頭の大刀で、福岡向原遺跡の素環頭大刀、奈良東大寺山古墳出土の鉄刀が時代的にこれに当たる。


資料23素環頭大刀 福岡向原遺跡 中平年銘環頭大刀 東大寺山古墳 魏から卑弥呼に親魏倭王の称号と共に贈られた同時代の大刀  

 鉄刀は極端な内反りである。金象嵌の銘文があり玉鋼とは言えない。謂ゆる、これらは舶載刀で赤目鉄鋼である。復元された鉄刀は相当な重量があり、実際には何を切らんとするのか不明である。単に外交上王権のシンボルとして贈られたか、その点、天叢雲劔は玉鋼で砥石に当てられ切れ味が鋭い。

 一般に日本刀の鍛造は、石英質の鉄鉱石を砕き、鉄穴(カンナ)流しで得た砂鉄を高温溶融炉1538度の鑪に投じる。鉧・ケラ押し法と呼ばれる上中下段で選別される日本独自の方法で、木炭と良質な砂鉄、川砂鉄の真砂の割合を量りながら三日三晩の操業で炒鋼錬鉄のケラ・銑鉄を得る。鋼は炭素量0,3〜2,1%、錬鉄は0〜0,2%で軟い、2,1〜5%では鋳鉄となり脆い。大鍛冶場に移して粉砕、電車のレール、釘等になる錬鉄と歩ケラから良質な玉鋼になる鉧・ケラを選別する。良質なケラを薄く延ばして一寸角に切り、テコの上に重ね、火床で加熱鍛錬して更に強靭な玉鋼、刀鋼を得る。圧延し、錬鉄・芯鉄で造り込みをする。刀身の刃渡りに粘土を帯状に置き、焼き入れ、水桶に落す。一子相伝のこの一連の行程で硬度、粘りは更に増す。数ヶ月をかけて研磨し、折れない、曲がらない、錆びない、軽くて切れ味の鋭い日本刀の刀身となる。日刀保たたらは安来にあり、年に一度操業される。日立金属安来鋼青刃鉄は大工道具鑿鉋(ノミ カンナ)、本焼の包丁となる。
 天叢雲劔はどのようにして鍛造されたのであろうか。日本列島独自の鍛造鉄器の出現は、中国戦国時代の農耕鋳鉄が舶載され、その破片の再利用が始まる弥生時代後期を俟たなければならない。三韓の鉄は手に入ったであろうが、鉄を焼いて敲くだけでは農機具にはなっても刀剣にはならない。そしてその焼いて敲く単純な技術さえ倭人はまだ未熟であった。鉄精錬技術の遺構が僅かに北九州を中心に発見されている。
 
① 福岡県添田町庄原遺跡に2世紀の金属溶融炉  
② 壱岐対馬カラカミ遺跡に弥生後期の鉄の地上炉跡  
③ 広島県三原市小丸遺跡に3世紀の円形炉二基の製鉄炉
 
 日本で最初に鍛造された刃物は卸し鉄による方法であろう。卸し鉄とは鉄屑など銑鉄を加熱して溶融、刃鉄を得る。旦し、鎌や鍬、鉄瓶や火箸にはなっても良質の刃鉄はなかなか得られない。舶載鉄を焼いて敲けば痩せるばかりで折り返しの鍛造がきかない。敏逹12年、583年、仏教伝来の年、倭国は新羅より最新製鉄技術を学んでいる。併し、それでも尚、20年後の推古女帝新年祝賀の儀で「大刀ならば呉の眞鋤(マサビ)」と蘇我一族は武勇を称えられた、が、この呉は高句麗、真鋤は刀剣のこと、いまだ高句麗軍の持つ武器の強靭さに日本刀が及ばないことを表している。天叢雲劔は鉄炉の技術を持った高句麗系渡来人により、これまで確認された炉よりも早い時期鍛造されたにちがいない。それは朝鮮半島を南下し、更に動乱を避けて海を渡ったであろう、さきの山岳狩猟民族オロチ族を念頭に置かざるを得ない。そして、その場所は韓半島の南、意呂山から200キロ、山口県萩、石見の浜田湾、広島に近い中国山脈である。凪の日の早朝に発てば夜半には対岸に着く。幸い浜田川には何万年も前から自然に鉄穴流しされた磁鉄鋼、石英質花崗岩の眞砂が豊富にあった。 山の向こうは広島県加計である。そこには赤松と百日の天候と太田川の水系があった。昔からの卸し鉄による方法で銑鉄のクズ等と共に眞砂と木炭を加減しながら加え、火床の底に溜った粘りのある玉鋼を得たのではなかろうか。銑鉄に眞砂を炒リ込んで粘りのある硬度の高い玉鋼を得る。では、川砂鉄の眞砂ばかりを使って玉鋼を得ようとしたらどうなるか。鉄の社会文化史講演会で質問が出た。三井住友金属の技師であった講師はやったことがないのでわからないと応答された。大正時代、古墳の鉄刀比較で、砂鉄を原料とした鉄であれば銅分が多すぎるという点に冶金工学の父 俵国一博士は注目されていた。輸入鉄は優秀であるが硬い。天叢雲劔は案外素朴な行程で鋭く粘りのある刀剣が得られたのではないか。刀剣鍛造家には1500度の熱にはこだわらない見解がある。複動式鞴はBC3世紀既に中国で発明されている。韓国の蔚山、旧意呂山の鉄炉から、当然持ち込まれていた筈である。個人でも1200度は可能であった。良質な眞砂を炒り込んだ鉄塊、火花と鎚音、真紅から緋色の鉄鋌、手に伝わる ぼた餅のような感触、半ば寝食を忘れ、汗ダクで追い求めた炭素量0,4パーセントの鋼。オロチの鍛冶は玉虫のエナメルブルー、メタルの輝き、玉鋼の匂いを感じたに違いない。日本刀は脱炭と吸炭が適度に行われ、不純物を除かれた刃鋼であるが、最新の機器、過去の資料をいくら駆使しても新刀は古刀に及ばない。鈍い光沢、錵(ニエ)、その魅力はどうしても新刀では表せない。較べてみれば素人でも一目瞭然であるという。そこには、これまで捨てられていた鉄滓、スラブ、ノロを見逃せないことを人間国宝刀剣鍛造家の隅谷氏は語っている。ここではオロチ族が極自然な方法で刀剣を鍛造出来た可能性を強調しておきたい。二世紀後半のことである。

  天叢雲劔、草薙劔は667年、天智七年近江京遷都の年、一時盗難に遇っている。沙門道行により新羅へ持ち出されようとしたが、途中船が風雨に遇い、荒迷、発見されて住吉大社に置かれた。盗難で、すぐには行方がわからず、その処置として各地の神社から由緒ある刀剣が宮中に集められた。当時、刀剣を鍛造すれば作者の銘を切ることが義務付けられていた。後に編纂される記紀の神話は鉄爐の村下たちを支配下に治め、刀剣を鍛造すれば朝廷に献上することを趣旨として書かれている。土佐大神神刀一口があり、既に上古刀名剣が鍛造されていた。四天王寺に伝わる丙子椒林剣は日本最古の名刀である。

資料24丙子椒林剣
  
 聖徳太子が所持されたといわれている。丙子の年616年椒林作直刀である。兵庫県養父郡八鹿町箕谷二号墳出土の銅象嵌戊辰年銘大刀608年作刀と酷似するところから国産説が有力である。但馬では山椒の実が採れる。椒林銘は首肯出来る。ここは、かって天日槍(アマノヒボコ)が自分を祀ることで弟子に鉄炉を置くことを許した場所でもある。豊岡市出石町入佐山3号墳被葬者の頭部に150グラムの浜砂鉄が置かれていた。日本最古で古墳時代前期のものである。ここで、鍛造刀では当然のことであるが、丙子椒林剣の杷部に柄飾りが無いことに注目したい。天叢雲劔 別名 都牟刈之大刀のツムガリは言語学上判明出来ていない。物を鋭く断つズカリ、スッカリなど本居宣長、古事記伝。頭曲り(ツムマガリ)であるとか、蛇のように曲った劍であるとか、全く意味不明である。或は、茎(ナカゴ)に柄飾りの無いツカムカザリ、打放しの握り手のことではなかろうか。それが日本刀刀身の原形となっている。また、切先の三ッ角、彫刻刀のような古代切刃作りの鋒は珍しい。神武東征で一行が熊野越えに難渋した時、天照皇神の神慮により熊野の高倉下は「神武に布都御魂(フツノミタマ)という名の刀を与えた」という。古事記の神武記がある。フツはたち切るさま、国土を平定したという霊剣は石上神宮に祀られた。其の後、鹿島神宮の御神体となった形代の剣。又、正倉院に聖武天皇佩用と伝えられた無銘の直刀。明治天皇が所望され、柄、拵鞘(コシラエサヤ)の雲紋から水竜剣と銘々された。三振りは切先が彫刻刀のような古代切刃作りで、御用剣であり、人を殺傷する大刀ではない。律と戒、仏法の匂いがする。

  686年6月、天武天皇の病が平癒せず、陰陽師の言葉で宝剣は即刻熱田神宮に戻され安置された。後のことになるが、江戸綱吉の時代、熱田神宮の社家四、5人が恐る恐る暗い行灯の下で見たのが件の宝剣ということになっている。1179年、平清盛はクーデターを起し、後白河法皇を幽閉した。1185年、壇ノ浦の戦い。宝剣は平家滅亡と共に海の底深く沈んだのではなかったか。焦った義経は宇佐神宮に願文を奉じてまで捜索した。兄、頼朝の母君は熱田神宮大宮司の娘である。宝剣は熱田神宮の奥深く秘蔵されていたともいう。後白河法皇は伊勢神宮より形代の剣を献上された。中世以降の剣璽の行方は捉え難い。古文書の「古語拾遺」(807年)に書かれている第十代崇神天皇のとき、天目一箇神(アマノマヒトヲ)による形代の宝剣の記述は斎部(インベ)氏の私的神代記である。天目一個神による天叢雲釼の形代は、神代記、まだ砂鉄であった。鍛造の技術もない。新羅から製鉄技術を学んでより約百年、蘇我氏の武の時代、宝剣が異国の僧に易々持ち出されたような社会環境では、宝剣の形状は、寧ろ、問わず語り周知のことであったのではないだろうか、でなければ、「劔」の文字を作る必要がない。ツルギの語源は剣を立てに吊るし佩くことからツルハキ、ツルギである。天叢雲剱は85センチの長刀で横に吊り佩き良く切れる刃鋼なので剱の文字を当てた。伊勢神宮の倭姫が倭建命に、倭建が宮簀姫(ミヤズヒメ)に、そして熱田神宮に祀られ、壇ノ浦に沈んだ筈の宝剣が、形代にせよ、それはオルドス式、遼寧式、朝鮮式銅剣のどれでもない。素環頭、飾頭の舶載鉄刀でもない、柄無飾りの鉄剣である。玉籤集裏書では劒の刃先が「菖蒲の葉のようであった」と云う。春日大社所蔵の宝剣に剣先だけが三寸ばかり両刃の一振りがある。天叢雲の劔の切先が両刃であったとすれば随分洒落た神剣である。ここは記述通り菖蒲造りの鋒(切先)であったと理解する。

資料25玉韱集裏書より 天叢雲劔、別名都牟刈之大刀 後の草薙剱 「三種神器の考古学検討」1945年雑誌アントロポス   
 
 短刀、脇差に多く見られる造り込みは、北方山岳民族の刀子の形である。切れることが刀工の目的である。倭建命は三重県鈴鹿の山中でいよいよ病が重くなり一歩も進まず、能褒野(ノボノ)で薨(ミマカ)る時、「嬢子(オトメ)の床の辺に置いてきたつるぎ大刀、あの大刀はよく切れたなあ」と云う述懐の言葉を残している。鉄刀は研磨しなければ、ただの鉄の板棒であるし、研ぎ、刀を立てることによって刀剣となる。
 天叢雲劔は浜田川の眞砂を加計、若しくは三原市小丸遺跡で鍛造された可能性が高い。その証拠に鉄剣の仕上げには砥石が欠かせない。半世紀の時差はあるが古墳時代初期の金城の千年比丘一号墳には天糲砥(アマノアラト)が埋納されていた。地元の古代史家は金城の石ではないと見る、筑紫からはこばれてきたものか、随分大切にされたものである。

資料26砥石、天糲砥 古墳前期 千年比丘一号墳 浜田市金城町長岡字中山 長田郷遺跡 縄文後期晩期定住遺跡

浜田市金城町波佐ネット通信たたら製鉄参照  
   
 三原市と加計、浜田、金城では幾分距離はあるが、同じ中国山脈の西、山岳狩猟民にとっては問題にならない。天叢雲劔は石見で鍛造研磨された可能性が高い。
 因に、日本で発見された最古の黒曜石 石刃・最古の刃物は中国山地 芸北 冠遺跡群である。芸北 加計、冠地区は三万五千年前、日本列島へ渡って来るユーラシア大陸からの朝鮮半島経由新石器新人の中間ルートであった。

   

13、八雲立つ 石見八重垣

 大陸からの渡り鳥は田畑の穀類を啄み、オロチョン族の末裔は鳥を追い、鏃を求めて海を渡った。いつしか、芸北の渓谷に炉を築き、鉄を叩いて農機具を提供した。しかし、生活習慣の異いは軋轢を生んだ。農耕民は山を焼き、地を耕し水を引いて穀物を育てる。一方、狩猟民は大地を傷つけることをニガニガしく思う、糞尿の田畑を穢れとして嫌った。南方渡来の農耕民には歌垣の風習がある。村々が協力して暮らす村里では田植え神事のあとの村祭りには若者は誰と恋をしても良かった。一方狩猟民は一族の結束が固く、一方的、かたくなで、逆に欲しいものは腕ずくで獲る。オロチは村娘を要求した。古事記のオロチ神話はここから語られる。
 記紀によれば
 須佐之男命(素盞嗚尊)は新羅より其の子 五十猛命(イソタケルノミコト)を帥(ツ)れて埴土の舟に乗り、出雲の国、肥の川(簸之川)を遡上、鳥髪の地(船通山)に至ったことになっている。 ところが、日本書紀に記紀以前の一書では
 素盞嗚尊は島根と広島の県境 安芸の国、可愛(エノ)の川上に下り至ると書かれている。   一書曰 是時素盞嗚尊下到於安芸国可愛之川上也 (江ノ川の最上流) 言いかえれば、韓半島東部から春の大南風で対馬海流に乗り、石見の海岸浜田湾に上陸、周布川上流から山越えして江ノ川の西の水源、千代田の土師ダム辺りに到着したことになっている。百歩譲って別の見方では、斐伊川を遡上、鳥髪の地でオロチ族の首領を討った後、次々と根城を襲い、可愛の川上に至ったことになる。その昔、須佐之男命は芸北加計に降り立ったという伝承もある。加計は周布川の上流から臥竜山を超えた大田川の水系にある古い鍛治の町である。何れにしても、遠呂智の中尾とは石見西部の山中で、天叢雲劔は発見されたことになる。そこから部下に言付け、周防灘へ出て天照に献上されたと解釈すれば流れが自然である。臥竜山は鳥髪山に比定する。ところで、八俣遠呂智の八俣と智は中国山脈の八ケ所の池を意味して書かれたのではないだろうか、オロが山岳ならチは池、もともとオロチは沿海州山脈、長白山脈の山岳に池のある土地に棲む人々を指した言葉かもしれない。 参考までに中国山脈で八ケ所の山と池は   資料27
⑴ 船通山、鳥髪山(1142m)    さくらおろち湖  奥出雲
⑵ 比婆山(1264m)立烏帽子山(1299m)灰塚湖  三次
⑶ 大万木山(1218m) 琴引山(1013m)木島湖  出雲
⑷ 三瓶山(1126m)         志津見湖    太田
⑸ 寒曵山(826m)堂床山(740m) 土師ダム湖   千代田 江津         
⑹ 阿佐山(1218m)冠山(1003m)仙水湖     北広島
⑺ 雲月山(911m)大佐山(1069m)龍姫湖     浜田 安芸
⑻ 臥龍山(1223m)聖山(1113m)聖湖 三段峡  浜田 芸北
⑼ 恐羅漢山(1346m)十方山(1328m)立岩貯水池 匹見峡 益田
⑽ 野道山(924m) 大蔵岳(834m)阿武川ダム湖  大原湖   萩 津和野 等がある。


資料27西日本神楽分布図 、石見山岳と湖 浜田市周布、北広島町、安芸太田町に多い石見神楽社中 昭和五四年刊 「西日本神楽の研究」  
 
 又、この池は棚田が可能な稲作の道でもある。八俣について、俣は倭人の造字である。俟(マツ)の字形を変えた俣は川筋の分かれめを意味し、大安萬侶が作字した。従って八頭八尾一胴は谷間に夫々の領域を持って暮らす一族のこと、目は赤カガチの如く蘿及び檜椙(ヒスギ)が生えているとは真赤に燃える鉄炉の火と山野の領域。山と積まれた松柏の薪を意味している。
 そしてさきの「一書曰」で浜田湾を特定したのには実績がある。湾の南、周布には日本海に面して微高の地があり、そこには朝鮮渡来系の鰐淵遺跡がある。土壙墓は三韓時代からの特徴的な墓の一種で隅丸長方形か楕円形、配列は中心墓と三つの周辺墓群に別れ、既に集団を構成する血縁的家族の分解を示している。出土品目のなかに有樋式細形朝鮮式銅剣を模した磨製石剣があり、弥生時代中期朝鮮製のものである。天族である須佐之男の一団が浜田湾から上陸したことは充分可能性がある。勿論オロチ族の渡来がある。周布のめんぐろ古墳出土、須恵器子持壺の肩に置かれた馬や犬かと見える動物の飾り、相撲人形には古代ツングースの流れがある。馬は五、六世紀日本へ来た。須恵器は朝鮮半島から伝わり、子持壺は周布で酒が醸された証でもある。資料27−2

資料27−2須恵器子持壺 島根県浜田市周布 めんぐろ古墳出土
 また、須佐之男は単身又は子連れで渡来したことになっているが、剽悍なオロチ族を相手に親子二人で立ち向かえる筈がない。神話である事は兎も角、単独では獣道を行き山越は出来ない。五十人猛(イソタケル)を50人の猛士を帥いてと読み換える訳にはいかないだろうか。筑前国風土記逸文には、筑紫の国の怡土(イト)郡の名前の由来が述べられている。
  私共は 高句麗の意呂山(蔚山)の国王 天之日鉾の苗裔(ハッコ)(子孫)五十跡(イト)手であると、五十跡手は個人名ではない。数十人の子弟、国主に仕えていた仕丁と述べた。怡土は よろこぶ土地、数十人の渡来人が入植、開墾した喜びを表している。同様に 
   播磨国風土記にも
   天日槍命 韓国より渡り来て、五十跡(イトテ)是なり。
  揖保郡粒丘の由来名であり、揖は礼儀正しい、多くの人が集まる意味がある。須佐之男は50人の一団であればこそ中国山脈一帯で活躍できた。そのことは船通山だけの小域に止どまらない。
  そして勘甚の出雲風土記に立ち返ってみると、須佐之男命も櫛名田比賣など、遠呂智伝説を伝えていない。現実的に遠呂智に呑ませた酒の醸造は須恵器の出現以後である。斐伊川上流から流れて来た箸が食卓の箸であるなら須恵器と共に普及一般化した、5、6世紀以後のものであるし、筮竹の箸であるならメドギ萩のことで周易が起源。日本伝来は、やはり大和王権の陰陽五行説、神事として古墳時代発展していったもの、出雲から50キロ山奥、鳥髪の地に周易が何の為にと云わねばならない。
 出雲風土記に遠呂智伝説がない以上、神話の源は越前でも富山湾でも語られる資格がある。富山には雄大な立山連峰が聳え、獣を追い求めてやって来た狩猟先住民族が暮らして居た。そこには旧石器の石斧、石刃、が眠っていた。

① 眼目新(サッカシン)丸山遺跡
 縄文時代草創期、神通川流域、野沢遺跡 局部磨製石斧、石刃、 尖頭石器
② 極楽寺遺跡 縄文時代前期 斑状耳飾り
③ 魚津市大光寺遺跡 縄文時代中期、火炎造形のバスケット形土器、
④ 氷見市 朝日塚 北代遺跡
縄文時代中後期、縄文人の人面形土偶、目の上がもりあがるモンゴロイド形。眼孔にタールのついていた土偶、玉の象嵌。鎌首をもたげ、尾を頭にまでからませる七センチ余りの小さな蛇の土製品。

資料28 富山の土器 蛇頭・男性人頭像氷見市朝日貝塚 女性人頭像 富山市北代遺跡 火炎土器 魚津市大光寺遺跡    
 土器群のなかには、一見ギョッとする、何の為にこのような、と思える火炎の造形、バスケット形土器がある、おそらく秋の収穫を祝う祭器であろう。眼孔にタールのついた土像は紅山文化の女神像を思わせる。蛇は鎌首をもたげ、侵入者を睨んでいる。富山には古代の遺跡が多く、糸魚川には水晶もあったが、高志之八俣遠呂智には、ただ一点、古代自然砂鉄が見つからない。オロチ神話の本旨は天叢雲劔の出現である。
  つまり、天叢雲劔が銅剣であるなら全国何処でもオロチ神話は語り得る。阿蘇山の大爆発が遠呂智神話になれば壮大であった。そのことは断っておかなければならない。大阪で働いていた出雲出身の銀行員はノルマに疲れ、サラリと言った。ヤマタノオロチは八方塞がりのヤマトの落伍者や、筑紫に送られた防人の夜逃げが出雲へ走り、鳥髪山に立て籠もったのだと解説する。 著名な方の見解もある。
①出雲の産土神
 古事記、高志之八俣遠呂智のチは神の意であるから、出雲山門郡高志郷の産土神が神格化されたものである。
‼︎筑紫から天降ってきた須佐之男神が出雲在地の「をろち」という名の蛇(神)を征伐した‼︎
                風土記にいた卑弥呼  古田武彦著  昭和53年 朝日文庫
② 三輪山の蛇
  日本書紀、八岐大蛇は蛇であるから、大和三輪山の蛇信仰が出雲神話となった。
「ヤマタノオロチはヤマトのオロチなのである」
「大和に侵入した天の信仰を持つ新勢力が蛇を信仰していた大和三輪山を中心とする旧勢力を打ち倒した という歴史を伝える神話である」
                  龍の起源     荒川 紘 著  平成八年 紀伊国屋書店 
  
 天地開闢の條から遠呂智神話を語ろうとした記紀の編纂者は、大和飛鳥から地図を前に、西の空を眺め雲ロールの遥か向こうに想いを馳せたに違いない。島根半島宍道湖を竜の頭に中国山脈を胴に、千代田辺り、金城で一巻きして萩、長門を掉尾として描いた。そこはオロチ族の棲む山脈である。新羅、百済人にとって歴史的に抗争の続いた恨みがある。668年高句麗を滅ぼした新羅や唐の史官達にとっても遠呂智退治は格好のストーリーであった。然し、大唐に於いて玉座の象徴である竜を悪者として退治する訳にはゆかない。白村江の戦いで敵味方なく恐れられ、勇敢でも獰猛であったツングース系の靺鞨族、蛇蠍と嫌われた民族をさして大蛇と記したのであろう。旧唐書には戦闘的野卑な と記録が残る。揚子江流域から稲と共にやって来た南方の農耕民には雨乞いの水棲動物、水の精の習合である龍神信仰がある。二つの民族の争いで、オロチのムドウル竜を悪竜に仮託して語ったに違いない。只、石見神楽継承保存の為にオロチ族の鉄炉を主題にしているが、石見には娘をよこせといった非道の歴史はない。その必要もない。それは応々にして古代王国の側にある悲劇である。
 そこで、ここではそれが何故、出雲鳥髪山かを説明しなければならない。
 何より日本書紀は大唐向けに編纂されている。時の藤原不比等政権にとって、白村江の戦い、壬申の乱、過去の敵対国九州王朝の存在は不都合である。新生日本の王権は唯一平城京にあることを示さねばならない。白村江の戦いで落命した筑紫の王君に想いを寄せた多くの歌が破棄削除されている。なかでも万葉集の次の歌は当時の持統天皇を称える歌に置き換えられていると、古田武彦著「人麻呂の運命」は指摘している。
 皇(おおきみ)(王君)は 神にしませば雨雲の 雷(イカズチ)の上に爐(いほ)らせるかも      
巻3-235 柿本人麻呂                                         
  
 この歌を、大正初期のアララギ派の歌人斉藤茂吉は高飛車な調子で論評している。
 「天皇(持統天皇)雷の岳(高市郡飛鳥村大字雷)行幸の時、柿本人麿の献(タテマツ)った歌である。一首の意は天皇は現人神(アラヒトガミ)にましますから、今、天に轟く雷の名を持っている山のうえに行宮を御造りになりたもうた。というのである。雷は既に当時の人には天空にある神であるが、天皇は雷神のその上に神随(カムナガラ)にましますというのである。これは供奉した人麿が、天皇の御威徳を讃仰し奉ったもので、人麿の真率な態度が、おのずからにして強く大きいこの歌調を成さしめている。」雷岳は低い丘陵であるから、この歌を誇張だとし、支那文学の影響で腕に任せて作ったものだと評してはならない。宮城を敬う真摯で高邁な精神性を味わわねばならぬと。
古田氏は学生の頃 図書館で必死になってノートに書き写したという。併し、雷岳は七メートルほどのなだらかな丘である。大阪の難波宮、法円坂でも20メートルはある。人麻呂は真実を淡々と詠む。歌の雷の丘は筑紫の雷岳770メートルの山のことで、人々が白村江の戦いで活躍された亡き筑紫の主を偲んだ静謐、敬虔な気持ちの晩歌であると、これまでの解釈の変更を求められている。そして人麻呂はこの歌の為に大和を追放されたと。当時、さきの内乱に加担した勢力、筑紫を詠むことは禁忌であった。又、中央集権化に批判がおこるなか、雷とは誰のことか、当て擦ったと難癖がついた。  
 
  「もう大和には居て貰わなくていい」 (人麻呂の運命 ―古田)
  
人麻呂は都落ちし、石見で没した。人麻呂亡きあと歌だけは大和飛鳥雷丘に移されて今日に至っている。
 古事記は天武天皇の意向で帝記、旧辞の編纂が始まり、編者の首位に川島の皇子、後の日本書記には舎人親王が立ち、多くの学者が参与している。古事記は稗田阿禮が誦習、太安万侶が筆録した。しかし、当時二人は三十歳前後の青年官僚、舎人である。資料の少ない当時、千年も遡る出雲、石見の歴史、伝承、地理の概要を誰が語ったか。それは柿本人麿を措いて外にない。人麻呂は同世代であるが、石見砂鉄の朝集史であった。又、柿本家は後の奈良大仏を鋳造した鋳物師の家系でもある。当然、山野に分け入り調査に当たったことは想像に難くない。しかし、さきの雷岳の理由で献言した石見地方の和歌伝承は書き替えられ抹消、削除されたであろう。古事記の須佐之男命の歌とされる、日本最古の和歌が、またそれに当たる。遠呂智を退治して須賀の地に戻った須佐之男は山にかかる雲をさして  

    八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を  

と歌った。然し、この畳みかけるような復唱は人麻呂独特の歌調である。そして助詞、助動詞の完結した歌の時代は 柿本人麻呂中期以降のものである(国文学者 稲田耕二)、日本最古の歌では勿論ないことになる。そして人麻呂の八雲、出雲の用例は既にある。

  ○溺死出雲娘子火二葬吉野一時作歌二首
   山際從 出雲兒等者 霧有哉 吉野山嶺霏霺(やまのまゆ いずものこらは きりなれや よしぬのやまのみねにたなびく)           巻3―429 ⑴
   八雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名颯(やくもさす いずものこらが くろかみは よしぬのかわの おきになづさふ)           巻3―430 ⑵
                                    柿本人麻呂

飛鳥 吉野の娘子の死をいたんだ歌である。⑵は溺死の悲しみ、⑴は火葬の時、出雲は火葬の煙、又、出雲の別な呼称はシュットン(遁走)、不名誉な防人の脱走者を指す。時の政権が王家の和歌にそのような文字を使用する筈がない。そこで大日本地名辞典では、
   「出雲の語源は須佐之男当時此地方の惣名、但し、和名称には出豆毛」。地名としては出豆毛が順当であろう。ここで記紀の原文を見る。  

    夜久毛多都(やぐもたつ) 伊豆毛夜弊賀岐(いずもやえがき) 都麻碁微爾(つまごみに) 夜弊賀岐(やえがき) 都久流(つくる) 曽能(その) 夜弊賀岐遠(やえがきを) (記)
    夜句茂多菟(やぐもたつ) 伊都毛夜覇餓岐(いづもやえがき) 菟磨語味爾 夜覇餓枳 菟倶盧 贈廻夜覇餓岐廻  (紀)
 
原文は伊豆毛、伊都毛となっている。しかし、波打つ豆畑神官浮屠の八重垣では意味をなさない。柿本人麻呂の歌の下書きは幾枚もあったであろう。彼が石見益田、高津の高台で詠んだ  
    笹の葉は み山もさやに 乱友(さやげども) 吾は妹思ふ 別れ来ぬれば    巻2―133
                                       柿本人麻呂
 
 この歌の下の句で、さきの復唱調を結ぶなら、八重垣は四方を山と丘で囲われ、周布川と日本海に守られた天然のまほろ–ば、周布郷のことである。日本海から吹き寄せる雲は三階山にかかり、唐倉山は見えず大麻山の頂きを隠す。あま族か、一説に新羅渡来で歌垣の風習のない須佐之男命がいきなり和歌を詠むのは少し無理があったのではないだろうか、太安万侶、稗田阿禮に尋ねてみたい。と思うと同時に人麻呂の石見の歌を採用されたことに感謝しなければならない。其処には周布郷を旅立って、角之浦廻の海岸を振り返り、振り返り田ノ浦を過ぎ、高津の高台から津和野路を都へ急ぐ人麻呂の姿があった。記紀の伊豆毛八重垣は周布郷に残る依羅娘子(ヨサミノオトメ)を偲んだ、石見八重垣ではなかったか。  
浜田市周布から折居海岸、大崎鼻、松ヶ崎、福浦、角ノ浦の海岸から田ノ浦、三保、古市場、津田、益田、高津。そこから山越えして津和野、宮島へ至る道は柿本人麻呂時代 西の玄関であった。角の浦廻の歌は、その海岸の道が歌われている。万寿3年の大地震で今はその道のほとんどが道なき道であるが。松ヶ崎のおおもと浜には大元神社の祠があったと古老の言い伝えがある。常時人の行かない寂しい場所なので福浦の網元が福浦港へ移して福浦神社として豊漁を祈願した。大元神社は広島宮島の古社である。折居浜、浜田漁港には大元神社、厳島神社が勧進されている。そのはじめは柿本人麻呂の時代から万寿三年の大地震まで石見路の旅の安全が祈られたに違いない。それは広島から播州路へと続く、後にこの道は重要である。
古事記を誦習した稗田阿禮は柿本人麻呂であるという見解がある。28才のとき、天武帝より稗田ムラノシンドウ阿禮の名前を賜り、35才のころ原・古事記を脱稿した、と。おのころ島、大八嶋瑞穂の国を生成、あめの宇受賣の裸踊りで天の岩屋戸を開いた 、ー 人麻呂の淳厚素朴さが偲ばれる面目躍如たる思いであるが、古事記のハイライト遠呂智神話を創作したストーリーテラーであったことにもなる。寧ろ、それは全体的にみて稗田阿禮はハムレットを書いたシェークスピアのような複数の人達の総称的ペンネームではあるまいか。帝紀など高貴な人のことを断定的に書けるのは豪族の血筋でなけねばならず、藤原不比等であるという梅原説もまた有力である。  
 唐を敵にした白村江の敗戦で、国内の旧勢力であった九州王国を抹殺無視、西方石見の考古学的伝承も削除、同時に天叢雲釼伝承も改訂された。
 古事記の都牟刈の大刀は物を鋭くたち切る形容という、当然、それは草薙釼より後の古事記編纂時の後付けの銘である。ここはひとまず、時の政権が雷丘を飛鳥の雷丘に替え、石見八重垣を伊豆毛八重垣へ詠み替えたように八俣遠呂智神話は中国山脈西の出来事を意図的に出雲に収束させて語ったということが出来る。神武東征から大和の王権が成立、出雲の勢力を牽制して古墳時代、筑造の労役や青銅器鋳造の疵が、後の斐伊川上流船通山、鳥髪山をしてオロチ退治神話を語らしめたのである。―出雲鳥髪山は芸北臥竜山が人麻呂の原オロチ神話であったと思う。 1600年後の今日、遠呂智は里帰りした。石見神楽で人々に生気を与え、いま輝いている。

14、柿本人麻呂と原・古事記

柿本人麻呂が原・古事記を書いたという見解がある。 柿本人麻呂の生没年は未詳である。その場所も死因も本当はよくわからない。考えられる生年は人麻呂であることから、ヒノトヒツジ丁未の生まれ、西暦647年である。生まれた場所は日本であったとは考え辛い。人麻呂の識字力、学識、歌才、当時の社会環境から韓半島南、新羅ではあるまいか。前漢時代、武帝の対外政策に刺激されて韓半島でいち早く斯廬国から独立の機運が生まれ、四世紀頃、諸国を統一して新羅と号した。唐と結び、百済、高句麗と戦い、又、唐を追い払い、668年朝鮮全土を統一した。935年高句麗に滅ぼされる。
人麻呂は幼少期、ある程度の高い教育を受けられる環境にあったと思われるが、半島の動乱で海を渡り、石見益田戸田村で少年期を過ごした。そして、15歳の頃、親族を頼って上京し、大和稗田村の柿本一族の元で暮らした。柿本家は代々鋳物師の家系である。家業を手伝いながら勉学好きの青年は大和各地に伝承される王家貴族の歌を採取する日々を送った。後に、採録された歌の数々が大伴家持に受け継がれ万葉集となり、日本語の表記に大きな役割を果たしていることが近年の研究で指摘されている。 壬申の乱が終わり 天武三年 西暦675年礼学振興が発令され、優秀な若者に、帝紀や旧辞の乱れを正し、古事記編纂が下命された。人麻呂28才の時である。そして、人麻呂は30才から35才の頃、朝集使として石見周布と播磨守に赴任している。原古事記はこの頃、構想が練られ、書き上げられたと考えられている。
おのころ島の発想は明石海峡から瀬戸内海を旅した折、目にした製塩の方法からヒントを得たものであろうし、遠呂智神話は朝集使として山岳を歩き、かって来た道、津和野から日本海へ抜け、益田から石見周布、そこから山越えして更に芸北、加計にかけて臥竜山を踏破した時に、伝承をもとに構想を得たものであろう。加計は古来製鉄の街として知られている。臥竜山には山岳民オロチ族の部落、鉄炉の跡があった筈である。オロチの目が充血してアカカガチのようであったとは鋳物師の家系として、彼は見過ごすことはなかった。そして、かって、一族の命運を左右した高句麗との戦いに常にオロチ族の影があったことを伝え聞きしていて、神話にその呪われた過去と平和への祈りを込めた。
人麻呂が歴史の表舞台に登場するのは天武帝が崩御し、日並皇子に供奉した690年で、冬猟歌が人口に膾炙されている。人麻呂45歳の時である、生涯多くの歌を残し万葉集中、長歌、短歌の採録された数は他の歌人より郡を抜いて多い。持統天皇の時、伊勢への遊行に供奉が許されず、その頃から次第に政権の中枢から遠避って行くことになる。人麻呂にとって残念な時期ではあるが、彼が余りにも諄厚素朴で飛鳥にこだわり、庶民の労役を思いやり奈良遷都に批判的であったためか、白村江の戦いで唐と敵対した筑紫の王、壬申の乱で天智寄りであった筑紫の王朝を懐かしむ歌を多く残した為であった。このことは唐との関係を重視した藤原不比等政権を刺激した。人麻呂は疎んじられ、彼の業績は抹殺、削除され始めた。古事記編纂が遅れ、一時中断されているのはこれらのことが原因であったのであろう。 人麻呂は710年旧暦三月 現地妻を偲んだ鴨山の歌を残して石見で没した。官位を剥奪されていたのであろう、その公的記録はない。
古事記は発令から37年、奈良遷都後712年 安倍仲麻呂、稗田阿禮によって朝廷に奉呈された。最後に古事記で大事なことは、人麻呂が出雲須賀の地で清々しいと書きこむことはあり得ないことである。人麻呂の子供、躬都良は壬申の乱に連座して隠岐に流されている。人麻呂は出雲に足を踏み入れることはなかった。許されないことである。   
須佐之男命がオロチを退治して天叢雲劔を部下にことずけ、周防灘から天照に献上、其後、須賀の地で櫛名田比賣と一緒に暮らした遠呂智神話の結びは藤原政権の意向が描いた出雲郷の美しい物語である。歴史小説家のなかには、古事記の記述の随所に女性らしい視点が見られるところから、「アメノウズメの後裔で、芸能を得意とした猿女君(さるめのきみ)一族の女性が稗田阿礼である」という見方がある。 併し、誰が誦習し、景色が美しく変わるにしても、100日の天気と自然川砂鉄、野鉄炉(のだたら)のない処にオロチ神話は成り立たない。その場所は石見西部、芸北加計と浜田市黒川を結ぶ広域線上にある ― そのことは自信をもって発信できる。
                               了    2022・10・21 

石見八重垣

  写真は周布の大麻山が望める田ノ浦へと続く石見の海岸と福浦港。人麻呂は右の歌の内容から周布郷を発って益田に至る三保三隅の沿岸沿いの道を歩いた。古事記の「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに」は「石見八重垣」で海岸沿いに歩いた人麻呂が大麻山の向こう周布郷の妻を偲んで詠んだものであろう。送別の歌にも「心配するなとあなたは言ふけれども」と妻籠もれる娘子(いらつめ)の気持ちが溢れて詠まれている。後年、万寿三年の石見大地震により海岸の道は途絶え、大きく内陸に迂回して元の道はわからなくなった。




写真29柿本人麻呂の角の浦廻の歌から

 

15、参考図書・講演

1、「鉄—塊の鉄が語る歴史の謎」 北里大学教授 立川 昭二 昭和41年7月   学生社
2、「シベリアの古代文化」 アレクセイ・オクラード・ニコフ
           加藤九サク 加藤晋平訳   昭和49年8月16日     講談社    
3、「古田史学会報」  no,120 no,124 no,128   昭和63年・平成26・27年
4.第22回 「国家と鉄」の謎にせまる         平成21年10月    朝日新聞   
5、鉄の弥生時代 ―鉄器は社会を変えたのか?— 
大阪府立弥生文化博物館 会館25周年記念 平成28年度春季特別展     産経新聞
6、中国古代史    昌平塾  
7、古事記現代語訳、記紀原文
 巻頭 イラスト   葉蘭切り 竜   大阪調理士 養成会  垂水 庖士

 

16、 オ ロ チ 神話の矛盾

 古事記編輯者は中国山脈の8本の河川と山岳に暮す狩猟と鍛治を活計とするオロチの一族一統を指して八頭八尾一胴の大蛇、八俣遠呂智と表現した。その大きさは谿八谷峡八尾(タニヤタニヤオ)に渡り、背には蘿桧杉(コケヒスギ)が生え胸ばらは赤く、酒と鉄炉の火でただれ、目は鬼灯(ホオズキ)の如く血走り真赤であったという。それはいい。併し、オロチの草薙剱は神剣、そのオロチが何故悪竜、大蛇なのか。悪竜の持つ剱が神剣となるのか。酒に酔い、女に狂って名剣が打てるのか。
 遼寧地方 北方ツングース系の狩猟民オロチ族が、BC72年、前漢宣帝が匈奴を攻め、その戦いの余波で豆満江を渡り韓半島を南下、蔚山(ウルサン)旧意呂山で辰韓の鉄文化と競合した。更に内乱を避け、日本海を渡り、中国山脈に入り、鉄を敲いた。日本の古墳時代、王権が紡がれ、663年、白村江の戦いを経て渡来した文化人が古事記、日本書紀 編輯に携わり、北方ツングース高句麗系靺鞨(マッカツ)族に敵意を抱いていて、北方虺竜文化を南方の竜神信仰に対し、悪竜に仮託してオロチ退治を語った。記紀神話は草薙剱が神器となって後、矛盾を孕みながら構成された物語である。山岳狩猟民は後のマタギ、竜巻きや洪水が民家を襲ったという歴史なら兎も角、マタギが酒と女を喰らったというのは山岳狩猟民にとって謂れなき中傷である。マタギの生活は禁欲的である。寧ろ、飛鳥時代 新政権監吏の特権意識には目に余るものがあったのではないか。酒乱淫行を見るに見かね、オロチ物語りの中で太安万侶は暗に酒と女で乱れることを戒めたのであろう。そのことは万葉集の中に暗号を使って詠み込まれた人麻呂の歌が数首ある。


石見神楽継承保存の為に                  垂水 烽士  

あ と が き
当小冊子(知人用にA4サイズ約90ページを作成)は 古事記神話 八頭八尾一胴の八俣遠呂智とは一体何者か!オロチの中尾から出現した天叢雲劔とは、それは時代的に銅剣か鉄剣?何故それがオロチ・大蛇の中尾からなのか、そんな疑問から始まった。オロチ、大蛇は竜の形、大蛇と竜の明確な区別は見当たらない。竜は変幻自在である。  竜の歴史をたずね、玉竜をたどって五千年、中国では貴族のお守りとなった觿(ケイ)と 日本では三種の神器のひとつ勾玉となる。又、青銅の竜は永い戦乱の歴史を経てリアルな竜図となり、仏教東漸の教化とが相俟って竜神は天空を駆けめぐる。ところが、日本の建国神話古事記に登場する竜は悪竜・大蛇に仮託されたオロチ族退治である。しかし、古事記は基礎資料を抹消された口述筆記、飛鳥の王権のもとで編纂された。舞台は出雲であるが、その出雲国風土記にオロチ神話は一行もない。不思議な話である。    コロナ禍の三年間、古事記と万葉集を行きつ戻りつ、中国青銅器の解釈は眺めるだけ、暗中模索、書いては消し、試考(・)⁉️錯誤の竜神の旅であった。誤りがあれば 御教示願いたい。中国史、朝鮮史、又、小冊子作成については昌平塾内田先生にお世話になった。謹んで御礼申し上げたい。今、稿を終えるに当たって、・・・。