西日本調理士紹介所案内

厚労省公認 大阪調理士紹介所 養成会

公益社団法人日本全国職業調理士協会大阪支部
公益社団法人全国民営職業紹介事業協会会員

養成会案内地図
●バラン「紅梅」食紅色付け(1970年代)


●大阪市中央区 南少年補導協会活動

案内

厚生労働大臣許可 日本料理調理士紹介所名門会(令和4年現在)

  1. 厚生労働大臣許可 飛騨調理士紹介所・飛雄会
  2. 所長 中里 太 岐阜県安八郡神戸町大字神戸1406久保田マンション

  3. 厚生労働大臣許可 平山調理士紹介所・楽友会
  4. 所長 平山貴文 滋賀県大津市におの浜3—3—3ヨシノビル3F

  5. 厚生労働大臣許可 京平調理士紹介所・>味識会
  6. 所長 太田茂裕 京都市東山区三条通南裏白川筋西入土居之内町469

  7. 厚生労働大臣許可 飯田調理士紹介所・昇寿会
  8. 所長 飯田道夫 京都市左京区川端通二条上ル新生州町113-1

  9. 厚生労働大臣許可 宇野調理士紹介所・同志逸品会
  10. 所長 宇野喜芳 京都市左京区岡崎徳成町12—4

  11. 厚生労働大臣許可 おおふじ調理士紹介所
  12. 所長 大藤美幸 京都市左京区古川町通仁王東門前町512

  13. 厚生労働大臣許可 原口調理士紹介所・原口調理士会
  14. 所長 永井秀俊 兵庫県姫路市北条432—2-1—101

  15. 厚生労働大臣許可 岡山三木社調理士紹介所・三調会
  16. 所長 坂本典雄 岡山市野田屋町1-6-24吉田ビル4F

  17. 厚生労働大臣許可 (有)中国調理士紹介所・中国調理士会
  18. 所長 佐々木政之 広島市中区銀山町16-11

  19. 厚生労働大臣許可 (有)藤田調理士紹介所・藤英会
  20. 所長 藤田和央 香川県高松市鹿角町27—15—604号

  21. 厚生労働大臣許可 (有)佐藤調理士紹介所・西日本佐藤調理士会
  22. 所長 佐藤兼也 福岡市中央区春吉1丁目5-1

  23. 厚生労働大臣許可 大雄調理士紹介所
  24. 所長 崎 正美 名古屋市中区錦2-5—31

  25. 厚生労働大臣許可 大阪調理士紹介所・養成会
  26. 所長 垂水恒夫 大阪市中央区難波千日前3-4

  27. 厚生労働大臣許可(株)関西割烹調理士紹介所・萌友会
  28. 所長 森口尚欣 大阪府豊中市上野東3丁目18-1河原ビル2F

  29. 厚生労働大臣許可 近調調理士紹介所・近調会
  30. 所長 北村秀樹 豊中市庄内西町2−20−1

  31. 厚生労働大臣許可(有)厚生調理士紹介所・庖心会
  32. 所長 吉富道代 大阪府堺市堺区龍神橋町2—3—1界フェニックス225

「日本最初の本格的料理書」

は じ め に

 すでにいい古されたことだが、鎌倉時代の日本仏教は偉大な3人の思想家を生み出した。いうまでもなく日蓮、親鸞、道元である。日蓮は火を吐くようなアジテータ(警世家)として、親鸞は地を這
うようなオルガナイザ(組織者)として、だれ一人知らぬ者もない。
 しかるにどういうものか、ただ一人道元だけはいま一つその人物像が明らかにされていない。 彼の主著『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』はあまりにも難解で、現代最高の文章家の一人井上ひさし氏ですら音を上げている。道元の高弟二祖(2代目)となった懐奘(えじょう)の『正法眼蔵随聞記』は、すぐれた解説書としていまなお愛読されているが、その一面 懐奘の師に対する思い入れが強すぎ、筆者筆者の積み重ねで原形があやふやだという批判も少なくない。そこで ここでは『比丘道元撰』とはっきり書かれている小冊子『典座教訓』をテキストとし、彼の真価を問うことにした。

食 と 禅

  自力本願を建前とする禅の修行には、気力だけでなく体力も必要とするので、禅宗には「食」を重視する伝統がある。臨済禅を最初に伝えた栄西(えいさい)の著書に『喫茶養生記』があり、黄檗宗(おうばくしゅう)は「普茶料理」で有名だ。しかし唐・宋時代の中国で芽生えたこの伝統を、日本の風土に移し植え寝付かせたのは、日本曹洞宗の開祖道元(どうげん)である。『典座教訓(てんぞきょうくん)』は、その初の理論と実践の書で、日本最古の料理書でもある。

          

道 元

 初代鎌倉将軍源頼朝が死んだ翌年、道元は時の内大臣久我通親を父とし、元摂生関白松殿基房の娘を母として生まれた。超一流の家柄だが、数え年3才の時父が急死、8才で母も失った。前摂政関白である伯父の松殿師家に養子として引き取られたが、13才の時比叡山に走り僧籍に入った。やがて禅に関心を持つようになり、栄西を慕って京都建仁寺に移った。翌年栄西が亡くなったので、その高弟明全に就いた。24才の3月、師の明全と共に中国留学を許されて博多を出帆、4月初旬には明州 (浙江省寧波ニンポー)港に無事到着した。

       

出 会 い

 5月4日上陸許可を持ってまだ船中にあった道元が船長と閑談しているところへ、一人の中国人老僧が入ってきた。当年61才、中国5山の1つとして知られた阿育王山広利寺の典座(てんぞ=炊事主任)だという。明5日の節句に、修行僧に食べさせるうどんのダシにする椎茸を切らしたので、日本からの入荷を聞き買いに来たとのこと。禅寺院で典座といえば大幹部の一人でもある。道元は入宋早々いい人に出会えたと喜び、当時貴重品だった茶をすすめ、懸命に話を持ちかけた。 

 「これも何かのご縁です。今夜はこの道元がご馳走しますからお受け下さい。」

 「いやだめです。明日の食事に私がいなくなったらうまくいきません」

 「阿育王山ほどの大寺に、他に炊事のちゃんとできる人のいないはずはない。典座様お一人ご不在でも、何の差し支えがありましょう。」

 「私は年とってからこの大役をおおせつかった。これも修行の最後の機会だと思っている。人にまかせるなんて飛んでもないことです。外泊するなど、毛頭考えてもいません。」

 

 「でも典座様はご高齢だ。どうして座禅に専念するなり、先人の教えをひもとくなり なさらないのです。いまさら面倒な典座職を引き受け、飯たきの作務(さむ=労働)に身を磨り減らして何の得がありますか。」
聞くなり典座大笑いしていわく。

 「外国の青年よ。あなたはまだ弁道(修行)とか文字(学理)というものの、ほんとの意味が、よくお分かりになっとらんようですな。」
厳しく切り返されてうろたえた道元

 「では文字とは何ですか。弁道とは何ですか」

「その初心を忘れず、絶えず問い続けるなら、その人の存在そのものが文字であり、弁道でありましょう(もし 問処を蹉過せずんば、あにその人にあらざらんや)」

典座はさらに
「まだ分からないようだったら、後日阿育王山においでなさい。道理について、少しは助言してあげられることもあるでしょう。」
と言い残して、暮れなずむ道を急ぎ足に立ち去った。

以上は『典座教訓』の中で、もっともよく知られる挿話である。その折典座が答えた文字と弁道の意義に対して、道元は『当時不会(その時はまだ理解できなかった)』と正直に告白している。しかし幸い二ヶ月後、40年にわたった修行を終えて帰郷するという老典座に再会「喜踊感激」した道元は、積もる疑問について、心ゆくまで教えを受けることができた。道元はこの挿話のしめくくりに
「山僧(道元の自称)いささか文字を知り弁道を了するは、すなわち、彼の典座の大恩なり」と銘記している。事実、入宋壁頭のこの2度の対話が無かったら、道元の炊事という職分に対する関心はもっと低いものになり、あるいは『典座教訓』は書かれずに終わったかも知れない。日本仏教史上に決定的な一章を刻みこんだ、劇的な出会いであった。

  

典 座

  禅道場の食事の質素、作法の厳格な事は今日知らぬ者は少ない。
しかし道元が5年に及ぶ留学を終え帰国した当時は、日本でもっとも代表的な禅道場であった建仁寺でさえ「なまじいにこの職(典座)を置けど、ただ名字のみ有りてまったくその実無し」という有様で、「国人僧食の事をいいて、僧家の食法あたかも禽獣の如しと、実に憐れむべし。悲しむべし」と道元ははげしく歎いている。従って曹洞宗のみならず、先輩格の臨済宗も含めて、僧食ひいては現代に伝わる精進料理の根幹は、道元によってはじめて整えられ確立されたと考えて差し支えないようだ。いずれにしても、俗世間ではその質素さを「わざと粗末な物を食べ、ひもじい思いを耐える事によって、信仰心を試し且鍛えるための苦行」と理解する事が多かった。道元はその辺をどのように考えていたのだろうか。
『典座教訓』は次のように書きはじめられる。

 仏家にもとより六知事あり。共に仏子たり。同じく仏事をなす。なかんずく典座の一職は、これ衆僧の弁食をつかさどる。禅苑清規(ぜんえんしんぎ)にいう。衆僧を供養す故に典座ありと。
 禅宗寺院では六知事、つまり6人の役員を置くきまりがある。僧としての身分はだれも平等だが、その中でも典座という知事は、修業僧達の食事を担当するという意味で重要だ。仏教で三宝(仏法僧)に供養するというのは、もっとも尊貴な行為である。だから典座という要職を設けて専任させるのだ。
すべからく道心をめぐらし、時にしたがって改変し、大衆をして受容し安楽ならしむべし。

 典座は真心をあらゆる面に張りめぐらし、時と場合に応じて適切な改善を加え、大衆が喜んで食べ、気持ちよく修行にはげむ事のできるよう努力しなければならない、と道元はいう。どうもわれわれの先入観とは大分違うようだ。

    

六 味 三 徳

  それでは、大衆をして受容し安楽ならしむる食事とはどんなものだろうか。

 六味精ならず、三徳そなわらずは、典座の衆に奉ずる所以に在らず。

 涅槃経(ねはんぎょう)によると、六味とは、苦酸甘辛鹹(かん)淡である。通常五味といわれる苦い・酸い・甘い・ピリッとからい・塩からい、にもう一味、淡いが加わる。うす味というのとは違う。味など無いようでいて、しかも味以外の何物でもない味。今日ウマ味と呼んでいる味感がそれに近いようだ。この六味がほどよくバランスしていなければならない。


三徳は 硬軟・浄潔・如法。まず味が濃過ぎたり、固過ぎて噛み切れないようではいけない。次に清潔を旨とせよ。これを調理の要訣として明記したのは、本書が本邦最初だろう。最後に何より法にかなっていなければならない。例えば炊飯一つを採ってみても、米選り、米とぎ、水加減、蒸らしなど何段階もの工程があり、各段にそれぞれの要領や勘どころがある。その手順の一つでも飛ばしたり手抜きしたのでは、うまい飯は炊き上がらない。あらゆる要点をキチンと押さえて実践するのが「如法」である。
以上を要約すれば、アッサリと、おいしく、清潔に、そして手抜きを一切せず、誠実に作られた料理でなくては、大衆を供養し奉仕する、典座の職分が果たされたとはいえないのである。      

典 座 教 訓

 『典座教訓』は道元の帰国後ちょうど十年目、主著『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』を書き進める間を縫って書き上げられた。原文は漢文だが、邦訳しても新書半分程度の小冊に過ぎない。しかし内容は道元の「食」に対する燃えるような理想と、それを後進に伝授せんとする烈々たる気概が、一種特異な文体にぎっしりと濃縮されていて、数千ページの圧巻を読む思いにさせられる。ただ5年間滞在した中国禅林の故事や、古代インド語の中国訳である仏典を多量に引用しているので、難解を極める。しかし一度その障壁を乗り越えると、その説くところはまことに親切丁寧。道元が特に重要と感じた事項は重複をいとわず、心無い人が読めば「くどい」といった印象さえ抱き兼ねないかも知れない。

 しかし彼を開祖と仰ぐ日本曹洞宗が、現存する日本の仏教教団としては、分派の無い唯一の宗派である事、本書が七百五十年後の今日、僧食・精進料理の原典として、宗派の枠を超えてますます声価を高めつつある事を思い合わせれば、こうした「くどい」ほどの、道元一流の指導法が、決して誤りでなかった事を知らされる。

   

米 を 選 る

  道元は本書中で米選りに関する心得を、それこそくどいほど繰り返し述べている。中国曹洞宗の宗祖洞山と、その弟子雪峰の「砂をより去って米か。米をより去って砂か」という有名な禅問答もその一つだが、当時の米はよほどひどい砂混じりだったらしい。道元はこの挿話の後「昔はそれほどの高僧でも、手ずから真剣に米選りを修行された。後来の若者がどうしてなまけていられようか」とさとした後次のように続ける。
たすきは典座の魂である。部下が米を砂と誤って捨ててしまう事のないよう、自分も加わって点検せよ。清規(禅寺の規則)にいう、造食の時は絶えず身の廻りを自ら点検して清潔に保てと。また米のとぎ汁は 無駄に捨てるな。昔からとぎ汁はこし袋で砂やごみをこし取って、粥を炊く水に使ってきたものだ。
とぎ終わったら鍋に入れ、大鼡に噛られたり、部外のヒマ人がいじったりする事の無いよう、大事に保管せよ。

 続いて粥時の菜を調える(禅寺では朝食は粥と決まっている)次に今日の斎時(斉は夕食、当時は朝夕二食だった)に用いる米・副食の材料を取り揃える。おひつ、汁桶その他の容器類を用意し、丁寧清潔に洗浄、棚に置くべきは棚に、床に置くべきは床に、高処の物は高平に、低処の物は低平に、適所に安定よく置け。箸、杓子の類、その他一切の物品は洩れ無く目を通し、真剣に検査し、おだやかに取り扱え。

 それが済んだら明日の夕食の材料を準備する。まず米は虫の無いものを撰別し、雑穀、ぬか、ごみ、砂、石ころ等、入念に撰り除け。次いで副食材料の下ごしらえに移る。足りぬ物あれば請求せよ。

 

妥 協 と 信 念

 倉庫主任から受け取る材料は、量の多少を論ぜず、質の上下を管せず、在庫品の範囲内で精一杯の工夫をせよ。顔色を変えて品物の苦情をいうような事は絶対につつしめ。

 一見一方的な妥協を強いているようだが、必ずしもそうではない。道元は老典座と船中で出会いの後、5山の一つ天童寺に入山を許されたが、日本での経歴を無視した席次を不当として抗議した。却下されても承知せず五山の全体会議に持ち込んだ。これも却下されると、時の皇帝寧宗にまで上訴、ついに主張を貫いた。夢にも理由無き妥協を容認する人ではない。

 実は紙数の都合で省いたが、別の箇所で、献立と分量の決定は全役員の協議制たる事、特に倉庫主任との事前協議の不可欠を指示している。ただし十分根回した上で、事が進みはじめた以上は、相手に絶対の信をあずけて、不平は色にも出してはならない。というのが道元の固い信条だったのである

 飯 を 炊 く

 朝食に使った鍋を洗うと、引き続いて夕食の飯を蒸し、副食を調理する。米をとぐ時は、典座は流し場から離れてはならない。しっかり目を開けて一粒も無駄の無いように。

 如法に淘汰して鍋に入れ火にかけ飯を蒸す。古にいわく、飯を蒸す、鍋頭を自頭となし、米を淘するに水はこれ身命なりと。

 本書は一貫して飯を「蒸す」といっている。にもかかわらず、蒸す工程やその器具に関する記述は、全文のどこにも見当たらない。右記の「如法に淘汰し」も「適量に水加減し」という意味にしか読み取れない。しかしそれでは「鍋に入れ火にかけ」たら蒸し飯でなく炊き飯になってしまう。
日本人は飯の炊き方なんて一手しかないと思っているが、民族により時代により、幾通りにも分かれる。日本では平安時代の終わりごろから、それまで主流だった蒸し器で蒸す強飯(こわいい)が徐々に廃たれ、きっちり水加減して焚き上げる「炊き干し法」に移りはじめていた。道元の時代はまだその過渡期だったが、水を身命に例えるほどの彼の事、水や燃料の効率の悪い蒸し飯法を採るはずが無い。

 

 当然炊き干し法に依ったと思われるが、本書だけではなく、当時の他の文献を見ても「飯を炊く」という表現が見当たらない。この新方式に言葉の方がまだ追いついていなかったようである。本書の「蒸す」はすべ「炊く」に読み替えて差し支えなさそうだ。なお「淘」の原意は「米を洗う」だが、後に「米をとぐ」意味をふくめるようになった。中国では一部の地方を除いて、米はたっぷりの水で炊きはじめ、煮立ってくると余分の水分を捨てて炊く湯取り法をとっている。だから同じ炊き干し法でも、厳密な水加減はいらない。道元が「如法に淘汰」と書いたのは、この両国の差異を承知の上、日本式炊き干し法を暗示したのに相違ない。

           注   近年は日本の発明品である電気炊飯器が中国にも普及している。
               これは必然的に日本式炊き干し法に依らねばならないので、
               中国も急速にそうなりつつある。

粗 食 と 美 食

  これまでにも、道元が決して粗食至上主義者ではなかった事を読み取られ
たと思うが、次のような條りにもよくその気持ちが現れているのではなかろうか。

 たとえ莆菜羹(ふさいこう)を作る時も、嫌厭軽惣の心生ずべからず。たとえ頭乳羹(ずにゅうこう)を作る時も、喜躍歓悦の心生ずべからず。既に耽着(たんじゃく)無し、何ぞ悪意(おい)あらんや。然ればすなわち粗に向かうといえどまったく怠慢無く、細に逢うといえどいよいよ精進あるべし。

 莆菜羹とは粗末な菜っ葉汁。頭乳羹は古代インドにあったという極上の乳製品のスープで、ここではご馳走の代名詞。この條で道元は、細 = 美食に逢った時、喜躍歓悦 ― 踊り上がって喜ぶような浮ついた態度は厳しく戒めているが、決して禁止しているわけではない。粗食を嫌い、美食にあこがれる耽着 ― 執着の心さえ持たねば、何も気にする事はない。そうなれば、粗末な材料に向かっても怠け心は起こらず、上等な材料に出会えば一層はげんでおいしい料理がつくれるだろう、といっている。

 

多 虛(たこ)は小実に如かず

  供養の物色(もつじき)を調弁するの術は、物の細を論せず、物の粗を論せず、真実心敬重心の生ずるを詮要とす。
大衆に提供する食べ物を調理する要点は、美食、粗食を論ずるのではなく、真実と敬重の心、嘘のない技術、愛情のこもった仕事が大切だ。そしてつまるところ
仏の縁といえど、多虚は小実に如かず。これ人の行いなり。

 豪華なフルコースのご馳走が、一椀の汁よりまずい事もある。良くも悪くも何事も仏の因縁だというけれど、結局は人ひとりひとりの行いの結果だという事を忘れてはならない。

吾幸いにして食を作る

  想うべし。吾もし天上に生まれば楽に着して問無し。発心すべからず。修行に便ならず。何ぞいわんや三宝供養の食を作るべけん。

 今吾幸いにして人間に生まれ、この三宝受容の食を作る。あに大因縁に非ずや。もっとも以って悦喜すべきの者なり。

                    注  三宝 = 仏・法・僧。この三者は三位一体(さんみいったい)だから、
                      仏壇にお供えするのも、お坊さんに食事を差し出すのも同等の行為だ、
                      という事になる。


 私は天国などに生まれなくてよかった、と道元はいう。幸いただの人に生まれたおかげで、食を作るという大事な仕事ができるしあわせを喜びたい ―

一種の逆説だが、それにつけて思い合わされるのが、浄土真宗の開祖親鸞。その語録『歎異抄(たんにしょう)』にいう「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや」。同時代に生きた両人 ― 前者はひたすら座禅の自力本願、後者は専修念仏の他力(阿弥陀如来の功徳)本願と思想の位相は180度異るが、その警抜な逆説の気迫は今日ますます力強くわれわれに迫る。

                       1985 . 11. 16 食物史家 米田 好喜